フォーマット上、ここの改行で空白を入れられないのが残念なのだが、本当は30行くらいここを空白にしたいほど、この時の、堤さんのこの言葉を聞いた俺は、頭が真っ白になった。
雲の上のような人が、俺が書く脚本を演出してくれるだと????
半信半疑のまま、その翌年、堤さんが初めて俺の脚本を演出した公演「さきわうために、できること」を中野で上演した。
その本番でお客さんに配布される公演案内のパンフレットに、堤さんはどんなことを書くのだろう、なぜちからわざの演出を引き受けたのだろう、なぜ俺の脚本を面白いと思ったのだろう、ワクワク3%、不安97%の気持ちで、パンフレットに書かれた堤さんのコメントを本番初日に読んだ。
それが、冒頭に紹介した文だ。幼稚園の娘さんの自作の歌。しかもウンチの。こんな詩はとても自分には書けないということ。別に書けなくても構わないということ。でも、ちょっと悔しいということ。この悔しさをバネに自分も頑張ろうと思ったということ。
「あら? 自由でいいんだ」と初めて思えた瞬間だった。いや、「自由」というのは甚だ難しく、俺が真の意味で「自由」にいられているか、自信はない。が、少なくとも「自由になることを恐れる必要はないんだ」と思えた瞬間だった。
一昨年の21年、雑誌『SWITCH』が俺を特集してくれた。その号で、堤泰之はこう言っている。
「佐藤二朗とは、特殊な言葉を書く人である」
かなりの買いかぶりのような気がするが、そしてシュトッドミゲルニーセンは特殊といえば特殊かもしれないが、とにかく身に余る言葉である。
俺が隔週でコラムを書いている「AERA dot.」では、俺は政治、経済、時事問題、社会現象などに関しては意地でも書かない(てか書けない、書く素養が俺には全くない)と決めている。自分が勝負できるのはそこではない。そういったことは俺より10億倍ほど頭のいい方々にお任せすればよい。
俺なりの「自由」を唯一の武器に、5年間書き連ねたコラム集、くだらなく、中身のない、ただただ「自由」に書き連ねた「駄文集」、それが『心のおもらし』という本です。
俺はこの「駄文集」を、大いに胸を張って皆さまにお薦めするものである。
そうして願わくば、24年前に5歳の女の子が歌った「ウンチの歌」に、追いつくことができたら、これ以上の喜びはない。