『DISRAELI GEARS』CREAM
『DISRAELI GEARS』CREAM

 イギリスではシングルのみの扱いだった《アイ・フィール・フリー》をオープニングに据えたアメリカ版『フレッシュ・クリーム』がアトコ・レーベルからリリースされたのは1967年の年明け。そのあと、クリームの3人は、アトコの親会社アトランティックの創業者アーメット・アーティガンに強く勧められ、3月下旬から4月上旬にかけて、ニューヨークを訪れている。クラプトンにとっては、記念すべき初のアメリカ訪問だった。

 大物DJ、マレイ・ザ・K企画のパッケージ・イベントに出演し、《アイ・フィール・フリー》だけを9日間毎日5回、計45回も演奏するという苦行が待ち受けていたが、その間、クラプトンはそれなりにニューヨークを堪能し、B.B.キングとのセッションも体験している。また、すでにアーティガンはクリームの2枚目は米国制作という方針を固めていたようで、アトランティックのスタジオで試験的な録音も行なった。曲は、ブルース・スタンダードの《ヘイ・ローディ・ママ》。ジュニア・ウェルズとバディ・ガイのヴァージョンを下敷きにしていた。

 翌月、ふたたびニューヨークを訪れた彼らは、アーティガンが信頼する二人のクリエイターを紹介される。エンジニアのトム・ダウドとプロデューサーのフェリック・パパラルディだ。のちにマウンテンのリーダーとして成功を収めることになるパパラルディは、3人が録音した《ヘイ・ローディ・ママ》を大胆に解体し、妻のゲイル・コリンズが書いた新しい歌詞とあわせて、サイケデリックな《ストレンジ・ブリュー》につくり直していた。クラプトンは不快にも感じたが、彼の才能と斬新なアイディアは認めたという。

 また、録音方法やクリームのイメージに関して彼らとアトランティック側には若干意見の食い違いがあったが、最終的にはバンド主導ということになり、短期間でアルバム『ディスラエリ・ギアーズ』は仕上げられた。リリースは67年秋。不思議なタイトルは、自転車をテーマにした会話でのちょっとした言い間違いを洒落でそのまま採用したものらしい。

 このアルバムでクラプトンは、《サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ》をジャック・ブルース/ピート・ブラウンと共演し、オーストラリア人ポップ・アーティスト、マーティン・シャープ(ジャケットのアートワークも手がけた)の詩をもとに《テイルズ・オブ・ブレイヴ・ユリシーズ》を書き上げるなど、『フレッシュ・クリーム』とは比較にならないほどその存在感を強く示している。《ストレンジ・ブリュー》でのアルバート・キングを意識したと思われるブルージィなソロ、《ウィア・ゴーイング・ロング》での叙情的なソロも素晴らしい。『カラフル・クリーム』の邦題で知られるこのアルバムは、いろいろな意味で、アーティスト=エリック・クラプトンの第一歩を記したものといえるだろう。[次回8/6(水)更新予定]

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大友博

大友博

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

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