■自陣に桂打ちの妙手

 藤井は以後、ノンストップで昇級を重ねる。今期からは満を持してA級に参加。多くのファン、関係者がすでに五冠を保持する藤井が名人挑戦の本命と見た。しかしその道のりは、決して平坦(へいたん)なものではなかった。

「今期のA級を振り返ると、全体として非常に厳しい戦いだったなと感じています。負けた将棋というのはチャンスを作れなかったですし。勝った対局もやっぱり、最後まで難しい将棋ばかりだったので」(藤井)

 藤井は7勝2敗でA級1期目を終えた。デビュー以来の順位戦通算成績は56勝5敗(勝率9割1分8厘)。これまでの将棋界の常識からすれば、信じられないような数字だ。

 藤井はA級同成績の広瀬と名人挑戦をかけ、プレーオフを戦うことになった。振り駒の結果、藤井は先手を得る。戦型は最新の角換わり腰掛け銀となった。

「最初のこちらが攻める展開から、攻め合いになったんですけど。後手玉の急所がかなり、見えづらい形で。そうですね、考えてもちょっと、距離感のつかめない場面が多かったかなというふうに感じています」

 92手目。広瀬はふわっと中段に角を出る。これが藤井の意表を突いた好手だった。

「指されてみるとかなりいやな形になってしまったかなと思ってやっていました」

 終盤戦。藤井は時間が切迫する中、強い受けでしのぐ。そして115手目、自陣に桂を打って広瀬玉に照準を定める。多くの観戦者を驚かせた妙手だった。

「そのあたりで、なんとか余せそう(僅差(きんさ)ながら勝てそう)かな、というふうに思っていました」(藤井)

 最後は藤井がきれいに広瀬玉を詰まして、深夜にまで及ぶ熱戦にピリオドを打つ。ネット上ではすぐに「名人挑戦」がトレンドワードとなった。

■棋王戦のゆくえ次第

 超一流の宿命として藤井はハードスケジュールがずっと続いている。A級プレーオフの3日前、藤井は挑戦者として渡辺棋王と棋王戦第3局を戦った。藤井は敗勢に陥ったあと、最終盤で逆転に成功。しかしそこで渡辺玉の詰みを逃すという、劇的な幕切れの末に敗れた。

「詰みがあったということに気づいたときは若干ショックはあったんですけど(笑)。ただ、もともとずっと負けの将棋だったので」(藤井)

 長く続いた藤井の先手番連勝記録もストップ。名人・棋王の二冠を保持する渡辺の底力を感じさせた一局となった。現時点では、名人戦の下馬評はおそらく藤井ノリの声が圧倒的であろう。しかし棋王戦のゆくえ次第では、その見方もどうなるかはわからない。藤井の快進撃は続くのだろうか。(ライター・松本博文)

AERA 2023年3月20日号

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松本博文

松本博文

フリーの将棋ライター。東京大学将棋部OB。主な著書に『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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