
平山:名古屋城は家康がつくったものですからね。今は面影ないけど駿府城(静岡県)もそう。駿府城の天守って特殊ですよね。天守の周りに独立した天守曲輪を築いて囲っていたんですからね。
千田:そうそう。駿府城の慶長期天守台を静岡市は「日本最大の天守台」といっていますが、あれは間違いです。天守周辺を本丸より上位の独立空間とした天守曲輪と捉えなくてはいけません。さらに家康は武田信玄・勝頼の精緻な城づくりの要であった馬出しも、自分の城づくりに取り入れていきました。馬出しは出入り口前の堀の外側に反撃用の陣地を設けたもので、日本だけでなく世界の城に見られます。家康は宿敵・武田氏に学んで強い城をわがものにしました。ところで平山先生は、強いてあげればどこのお城が好きですか。
平山:高遠城(長野県)ですかね。武田の伊那支配の拠点のお城で、信長が「天下の名城」と呼んだ城です。それをわずか1日で息子の信忠が落としたのを褒めたたえるシーンが『信長公記』にあるのです。それだけ、信長も高遠城は簡単には攻め落とせないと思っていたようです。その城が江戸時代も使われ、今も中世城郭の面影を残したまま保存されているのですからね。
千田:桜の名所でもありますしね。私は中学1年のとき姫路城を遠望して城の研究を志しました。安土城にも感動しました。そのころの安土城は発掘や整備が進む前で、昼なお暗く木々の間に崩れた石垣が続いていました。信長が本能寺の変で、志半ばで倒れたことと、城跡の姿が重なるようで感慨深く思いました。
■発掘と研究で真の城を発見
千田:城は少しずつ埋まりながら遺跡として今日に伝えられています。だから調査が大切です。先日、「どうする家康」の初回に出てきた名古屋市の大高城の発掘成果が発表されました。名古屋市教育委員会による発掘の結果、本丸のまわりに幅10メートルを超え、深さは堀だけで4メートル、堀を掘った土を防御の土手(土塁)として本丸側に積んだとすると、合わせて深さ8メートルに達する強固な防御施設を、城将だった今川方の鵜殿長照がつくりあげていたのが、はじめて判明したのです。