私が理想とする旅行記は「物語が面白く、文章が上手で、ユーモアがある」というものだが、日本のものでも外国物でもめったにこの条件を満たす本には出会えない。
今まで読んだ中で最も理想的な旅行記は『どくろ杯』だ。昭和初期、不倫する妻を愛人から引き離すというそれだけの理由で、一文無しの詩人は無理やり海外へ旅に出る。破天荒な旅、愉快な登場人物、魅力的な町や港の描写、そして誰にも真似できない、飄々(ひょうひょう)としていながら繊細で艶っぽい文章。
私は初めてこの本を読み終わったあと、著者がすでに世を去っているというのが信じられなかった。親しい人が急に亡くなったときのお通夜にいるかのような気持ちになった。それくらい文章が生命に満ちあふれているのだ。そんな感想を抱いた本は旅行記以外でもない。この本だけだ。
ここでは上海を出たところで物語は終わっているが、その後旅はフランス、ベルギー、マレーシア、インドネシアと展開し、足かけ7年を費やす大放浪となる。それを描いた続篇『ねむれ巴里』『西ひがし』は『どくろ杯』に勝るとも劣らない至高の作品だ。
さて海外物では、今やSFコメディの古典『銀河ヒッチハイク・ガイド』の著者として知られるアダムスが世界中の絶滅危惧動物を訪ねて歩いた『これが見納め』と、これまたSF文学の古典『1984』を書いたオーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』が最高に面白い。
アダムスは人間と動物のいびつな関係を文明論に仕立て、オーウェルは人が自由に生きて無残に野垂れ死ぬパリと生き甲斐の見えないロンドンの福祉を実際に体験して比べている。二冊とも楽しく笑えて、かつ鋭くて深いルポ紀行である。
※週刊朝日 2013年8月16・23日号