つくば万博に参加したキャストスケーター
つくば万博に参加したキャストスケーター
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 東京ボンバーズ解散の打撃から、日本のエンタメ界を支える存在として復活した小泉博。ローラーゲームの五輪競技化という夢へと、周囲を巻き込みながら邁進していく。すべてはローラースケートのために。短期集中連載「日本を明るくした男」では、ノンフィクションライターの渡辺勘郎さんが彼の人生を追った。

【写真】CM撮影でジャイアント馬場に抱かれる小泉博さん

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 1983年、小泉博が支配人を務めていた東京・板橋のローラーインTOKYO(以下RIT)で、ダンスコンテストがメインのイベント「ムラサキ・カップ」が開催された。

「小泉さんはまず、お客様を呼ぶ企画を考え、お客様を喜ばすために本人がMCもやって盛り上げ……ありとあらゆることをしていた。あんなに熱心な支配人はいませんよ」

 ムラサキスポーツ側の担当者で現・専務室の藤城和敏は、こう振り返る。

 そのムラサキにローラースケートやスケートボードといったアメリカン・アクションスポーツを仕掛けたのが輸入会社のハスコ。会長の長谷稔に言わせると……

「小泉さんは『こんなことやります』と言ってきても『お金を出してください』とは言わない。だから人が付いていく。そんな彼が『ホントにこれはいいんだよ』と言うと、皆が頷く。そうやって市場を広げてくれました」

 翌84年、テレ東がスペシャル番組でローラーゲームを2試合放送した。一つは小泉博がサンダーバードに特別ゲストとして加わった試合で、このときの渡米で小泉は、かつての東京ボンバーズのオーナー、グリフィスと再会する。自分を路頭に迷わせた人間……普通なら会いたくないが、関係を結び直すところが小泉らしい。だからこそ「ヒロシが日本でローラーゲームを復活させるのなら私は協力するよ」という言葉を掛けられたのだろう。小泉は以後、晴れて日本で「ローラーゲーム」「ボンバーズ」を名乗れるようになった。

 続く85年、小泉は「つくば科学万博」のパレード演出に関わる。

「キャストスケーターの僕たち約20人がステージカーの周りで華やかなアクションをするんです。人を飛び越えたり、タップしたり……小泉さんのアイデアは対面してしゃがんで飛び越す、みたいな意外性のあるローラーゲーム的な演出で、それを半年間、毎日やりました」(現・映像制作プロデューサー・Yuuki)

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