
「並んだファンに事故なく見てもらうことができて良かった」(北田)
Yuukiや植木らはスターライトエクスプレスのローラースケーターキャストにもなり、光GENJIのバックダンサーにもなって、活躍の場が増えていく。
同年には小泉の提案をきっかけにしたドラマがテレ東で制作されることにもなった。
「光GENJIを起用してローラースケートをテーマにした『あぶない少年』というドラマを考え、ジャニーさんに提案したら、『いいですね』と即答されました。あのとき、技術指導と演出だけでなく企画力もあると認めていただけたと思います」
小泉とRITのスタッフはほぼ毎日、夕方になると光GENJIとテレビ局を回ることになる。
「ベストテン、トップテン、夜のヒットスタジオ、ミュージックステーション……当時は生放送の歌番組が多くてね」
さらに小泉はRITのスタッフに「ドラマと同時にローラーゲームを復活させるぞ」と宣言。翌88年からローラーゲームの復活興行を打った。
89年には九州で「よかトピア(アジア太平洋博覧会)」、翌90年にも「スペースワールド」に呼ばれて行った小泉たち。
「スペースワールドのときはダンサーの中にローラー隊があって、ローラースケートで近未来的な華やかさを表現していました」(植木)
スターライトエクスプレスのときに初めて小泉と会い、スペースワールドの演出にも共に関わった金谷かほりが振り返る。
「スターライトエクスプレスのときはダンスにローラースケートを混ぜて進化させるという、他ではやっていないことを小泉さんのお陰で実現できました。ローラースケートのスピードのお陰でショーに変化が付くんです。今でもテーマパークでローラースケートが欲しいと思うときはいつも、小泉さんのところから独立したお弟子さんに来てもらっています。
小泉さんは、できない子にもイライラしないで、その子に合わせた教え方をしてました。そこにも表れていますが、人とのお付き合いを大事にされるんです。スペースワールドは33年前のことで、九州の地元のダンサーを集めてショーを作りましたが、彼は今でも当時の出演者と交流があるのを知って驚きました。そういう方なんです」