夏目漱石は、日露戦争をはさむ明治36年から39年まで東京・千駄木の借家に暮らした。偶然にもその家は、ライバル森鴎外が住んだ借家でもあった。敷地400坪、家賃は25円(現在なら約25万円)。漱石は生活費のため嫌々帝大と一高で英語教師をしながら、神経衰弱を自らなだめるために、その家を舞台として『吾輩は猫である』を書いた。その1回分の原稿料でパナマ帽を買い、漱石は自慢気にそれをかぶって、千駄木の町を闊歩したという。著者は千駄木生まれの千駄木育ち。「漱石の書いたもので一番好きなのは書簡」というだけに、本書は漱石が友人や弟子に書き送った手紙を織りこみ、当時の漱石一家の暮らしぶりや感情が綴られている。
「今の世に神経衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒かさらずば、20世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候」と、今と変わらぬ世相に悪態をつき、せめて「千駄木で豚狩りをして遊びます」とおどける漱石。なぜ豚?それは単に、家のそばに養豚場があったから。
週刊朝日 2012年11月30日号