ゴルバチョフ氏が進めようとしていた改革そのものにも無理があったように思える。資本主義経済を全面的に取り入れるわけではなく、国家がほぼ直接、経済・企業を運営する「計画経済」が経済の基本であり続けた。ゴルバチョフ氏は外資の導入を始めたり、個人企業をつくったりしようとしたが、共産党・国家官僚の抵抗でうまくいかなかった。つまり、改革といっても社会主義の枠内の改革にとどまったのだ。その非効率性を変えるのは、ゴルバチョフ氏にとっても難しすぎた。再び、日記の一部を引用する。

「(89年1月22日)午前零時すぎ、モスクワ市内の地下鉄駅で菓子を売るロシア人の中年男性を見かけた。電気修理工だが、給料が低く、バイトもしないと子供を養えないという。『社会主義計画経済は、人間をダメにする』とこぼす。誰かがよく働きノルマを超過達成すると、その職場全体のノルマが翌年上がるという。働こうが働くまいが給料は一緒。だから、働き者は職場で白い目で見られる、という」

 そんな社会主義に飽き飽きした人々が、ゴルバチョフ氏をからかう次のようなアネクドート(一口話)を作り、街中ではやった。

「国会で議長のゴルバチョフが言った。『議員諸君、どの派が多数かを決するためこうしよう。社会主義に賛成の人は右のほうの席に、資本主義に賛成の人は左のほうの席に集まってくれたまえ』。ひとりの議員がどっちつかずで左右の席の間をうろうろしていた。ゴルバチョフは声をかけた。『決めかねているのかね。それなら、われわれ議長席の所に来たまえ』」(社会主義を維持したい保守派と、改革派の間でバランスを取ろうとするゴルバチョフへの皮肉)

 日本とソ連を比較するアネクドートもあった。

「日本は明治維新後、直接、資本主義への道を歩んだ。ソ連の社会主義は間接的で曲がりくねった歴史上最も長い資本主義への道だ」

■エリツィン氏の足元にも及ばなかった再チャレンジ

 ロシアの地方での食料配給制は80年代はじめまでには一部で始まっていたといわれる。ゴルバチョフ氏はかつてロシアの南部で共産党幹部を務めた。経済改革の必要性はよく知っていたはずだ。後にクレムリンの「キングメーカー」といわれたアンドロポフ・ソ連共産党書記長と関係を深め、共産党の官僚機構の中で権力の階段をのぼりつめた。

 ペレストロイカ末期、一党独裁が崩れ、共産党以外の政党も認められた。しかし、ゴルバチョフ氏は最後までソ連共産党を信じ、「社会主義」と「民主化」は両立すると考えていた。民主派だけでなく保守派の顔も立てようとした。「ゴルバチョフの妥協的姿勢はペレストロイカのテンポを遅らせ、経済改革の破綻を引き起こしかねない」と「モスコフスキエ・ノーボスチ」(89年)は指摘。それは的中した。

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