1989年11月の新聞「モスコフスキエ・ノーボスチ」の記事。書類で顔が隠れているのがゴルバチョフ氏(岡野氏提供)
1989年11月の新聞「モスコフスキエ・ノーボスチ」の記事。書類で顔が隠れているのがゴルバチョフ氏(岡野氏提供)

 ソ連史上初めての市民の街頭デモや政治集会がモスクワで開かれた。秘密投票が保障され、複数の立候補者が立つ民主的選挙が国会レベルで実施された。それまで選挙は1選挙区に候補者1人の形式的なものだった。

 さらに、そうした事態を報じる自由なメディアが登場。人気週刊誌は読者数が3千万人に達し、発売日は街角のキオスクに朝から数十メートルの行列ができた。

 文化にも雪解けが訪れた。それまで清掃作業員をして稼ぎながら地下で活動していたロック歌手たちがテレビ出演するようになった。ソルジェニーツィン氏ら共産党の公式見解を批判する作家の本が本屋に並ぶようになった。

■モスクワ留学で体重が10キロ減った

 このように民主化は国民に歓迎されたが、それでもゴルバチョフ氏は国民に不人気だった。ソ連は共産党一党独裁で、ゴルバチョフ氏はそのトップ、共産党書記長だったが、党内で反旗をひるがえす者もでてきた。

 評論「ゴルバチョフの謎」は冒頭で、「国内でゴルバチョフへの批判の声が高まっている。いったい彼は何者なのか。なぜ退陣しないでいられるのか。われわれとゴルバチョフとの間で相互理解は成り立つのか」と問題提起。その答えを「ゴルバチョフはバランスを取る名手だ。彼を一人にしてはいけない」と述べ、次のように説明している。

「ゴルバチョフは『グラスノスチ(情報公開)のため、ソ連共産党中央委員会の議事を録音して一般に公開しよう』と述べた。ラジカルな民主派の理解を得るためだ。一方で、党内の保守派に配慮して、グラスノスチを抑えることもある。ゴルバチョフの人間的な美点は、様々な批判があっても、忍耐強くそれにこたえる点にある」

 人々がゴルバチョフ氏を支持しなかった大きな理由は何か。

 ゴルバチョフ氏はソ連を建物になぞらえ、改革をペレストロイカ(立て直し)と呼んだ。だが、建物の土台となるはずの経済はボロボロだったのだ。

 筆者は1988~89年、ペレストロイカ最盛期のモスクワに留学した。食料品店などのモノ不足に驚いた。肉を買うには2時間行列しないといけない。そのため近所で行列しなくても買える唯一の食品、ドリンクヨーグルトの1リットル瓶を買い、それを夕食代わりにした。体重が10キロ減った。ペレストロイカの実情を知っていただくため、当時つけていた日記の一部を紹介したい。

「(89年3月5日)ロシア人の新聞記者が地方の食料事情を話してくれた。モスクワやレニングラード(現・サンクトペテルブルク)などを除けば、多くの町で、肉、ソーセージ、牛乳などは店で売っていない、という。みな配給制だ。しかも牛乳の場合、子供のいる親のみに配給されるという」

 食料問題は深刻だったのだ。

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