私には母親がふたりいます。「えっ、どういうこと?」と思われましたか? ふたりの母とは、産みの母と育ての母のことです。私が幼い頃、日本本土の基地反対運動を受け、米軍は沖縄に移駐し、基地を拡張していました。基地周辺には、米兵を相手にするバーなどの飲食店ができました。米兵で24時間、お店は賑わっていました。シングルマザーだった私の母も住み込みで、そういう飲食店で働く女性たちの身の回りの世話や、まかないの仕事をしていたのです。母の職場は、米軍キャンプ・シュワブのある、現在の名護市辺野古でした。
それで私は2歳から10歳ごろまで、与那城村の知花カツさんという、母の友達の家で里子のように育ててもらったのです。私は、実の母を「アンマー」、育ての母である知花さんを「おっかあ」と呼んできました。この知花さんの存在が、私の人間性を養ってくれました。
私はいわゆる「ハーフ」、米国人と日本人のミックスです。子どもの頃、大人たちは沖縄戦の記憶がまだ鮮明で、アメリカへの憎しみや複雑な感情を抱いていた方も少なくなかったと思います。差別的な表現ですが、「合いの子」「アメリカー」などと大人からは理由もなく言われたり、時には上級生に殴られたりすることもありました。
私は泣き虫だったので、いじめられてはしょっちゅう泣いて帰りました。すると知花のおっかあが「どうしたの?」と聞いてくれて、沖縄のこのようなことわざを教えてくれました。
「カーギヤ、カードゥヤル」
カーギは「容姿」、カーは「皮」です。「人の容姿は一枚の皮でしかない。一皮剥げば、みんな同じように赤い血が流れているでしょ。人を見た目で決めつけてはいけないよ」というメッセージでした。
こういう言葉も教えてくれました。
「トゥーヌ、イービヤ、ユニタキヤ、アランドー」
10本の指はどれも同じ長さではないよ、でも全部大切だよ、みんな個性があるんだよ、という意味です。「だから、あなたの姿や形が周りと違っていても大丈夫。あなたがアメリカ人に似た顔で生まれてきたのも個性なんだから、卑屈に思うことはないよ」とも言ってくれました。
それ以来、私は肌や目の色が違うことをコンプレックスだと思うことはありませんでした。生まれや容姿で人を区別することもありませんでした。おっかあの言葉から、今につながる多様性、ダイバーシティーを教えてもらいました。おっかあは本当に優しい人で、私はやんちゃ坊主でしたが、叱られた記憶はありません。自分の実の子どもではなくても、愛情を持って育ててくれました。おっかあの夫は南方で戦死していました。娘2人、息子1人が残されていて、義理のきょうだいとなる私を知花家の皆さんはとても可愛がってくれました。