■「誰一人取り残さない」の原点
我が家は母子家庭で貧乏でした。高校は授業料免除。そんな私を支えてくれたのが、友人たちと音楽でした。
中学校2年の後半だったと思います。今でも「ポン友」の友人から、ギターを教えてもらいました。学校から帰ると毎日練習です。その友人とは別の高校に進学したのですが、高校2年の時、彼の高校の仲間とバンド活動を始めました。それからは寝ても覚めてもロック。髪も伸ばして、バンドの練習がまるで部活動のような青春時代でした。
当時の沖縄では、全国的に有名なロックバンドの「紫」や「コンディション・グリーン」が活躍していました。私もライブハウスに聴きに行って、そうしたオキナワン・ロッカーの先輩たちとも知り合いになりました。米兵の前で演奏し、拍手喝采を浴びている彼らは、本当に格好良かったことを覚えています。とても憧れました。
バンドでは、私の担当はボーカル。「お前は顔が洋風だから、英語の歌を歌えるはずだ」と言われたのがきっかけでした。私は沖縄生まれ、沖縄育ちの生粋のウチナーンチュなので、英語などできるわけがなかったのですが。
練習はほぼ毎日です。ただ、高校から練習場所のある沖縄市まで往復するバス賃がありませんでした。困った私を見て、帰り道はメンバーがバイクで送ってくれました。休憩時間にはメンバー4人でコーラとお菓子を食べながら、おしゃべりします。そんな時も「デニーはお金がないからいいよ。(コーラとお菓子代は)俺たちが出すよ」と言ってくれました。
「申し訳ないなぁ」と思いつつも、彼らの優しさを受け止めました。これは一例ですが、そうやってずっと支えられていたという気持ち、感謝の気持ちが今もあります。こういう経験が、その後の私の「誰一人取り残さない」という信条につながったのだと思っています。
先ほど「私は父の顔も知りません」と書きましたが、小さい頃は「親父に会いたい」と母親にせがんで、困らせたこともあったようです。中学生で反抗期を迎えるまでは、どこかで「アメリカに行きたい。親父に会いたい」という気持ちもありました。大人になってからは、あまり真剣に「会いたい」と思うことはなかったのですが、一時期、父の所在を調べようとしたこともあります。
2009年に衆議院議員に初当選して、初めてアメリカを訪れた時のことです。アーリントン国立墓地に行って、1958年に沖縄に駐留していた兵士で「ウィリアム」という名前がないかどうか、検索しました。登録者数が膨大で、結局、探し出せませんでした。
私は、自分の子どもたちに「はい、これがあなたのおじいちゃんですよ」と見せたい気持ちがあります。一番下の娘も「お父さんのお父さんでしょ。会いたい」と言うのです。DNA鑑定をして、アメリカ人の父親を見つけた沖縄の友人もいます。アーリントンを訪れて以来、私もいつか、何かの拍子で父の消息が分かるかもしれない、と思っています。
探そうとは考えていません。何かのきっかけでいい、そんな思いです。