狂気の沙汰、といえないだろうか。「命がけ」の練習に疑問を抱かない。指導者による洗脳に近いものがある。それを学校史で美化してしまう。一中にもこんな異常な世界があるのか―――団体体操の優勝から15年後のことである。
1967年、水球が六年ぶりに優勝を果たしたとき、学校新聞にこう紹介されている。
「水球部の練習については今と昔とでは相当違って、昔は部長を中心に本当に練習一本やりで、夜の八時ぐらいまで鍛えられたらしい。しかし現在では練習が科学的になり、各個人の自覚にまかせた練習法をとっているそうだ。〔略〕昔は練習量が多くて選手を苦しめたそうだが、現在では練習量も半分になり、大分楽なのではないかとのことだが、しかし現在でも水球部の練習はきびしいそうだ」(濟々黌新聞1967年12月18日)
漫画誌『少年マガジン』で「巨人の星」の連載がスタートしたのは1966年のことである。六〇年代、スポ根漫画が人気を博し、学校の部活動で根性主義がまかりとおっていた時代にあって、「科学的」「個人の自覚にまかせた練習法」という言葉が飛び出したのはなかなか先見性がある。「命がけ」がばかばかしいことが認識されつつあった。
北海道札幌南高校も強かった。1949年、国体には前身の札幌第一高校からバスケットボール、バレーボール、テニス、体操で40人以上が参加している。同年、札幌第一高校はバスケットボール男子で優勝、バレーボール男子が3位になった。
1951、52年にはバドミントン女子が連覇を果たしている。51年の優勝メンバーはもともと札幌東に通っていた。50年、道内の高校は学区、男女共学化で組み直されてしまった。札幌東(直前まで市立第一高校、旧制札幌市立高等女学校)から100人以上の生徒が学年途中で札幌南へ移っている。札幌東は50年にバドミントンで全国制覇しており、同校の精鋭選手が札幌南高校に転入した。そして51年、同校に日本一をもたらした。学校再編成がなく学校間の生徒移動がなければ、札幌南高校が優勝はしなかったという見方もある。