西武時代の森祇晶監督
西武時代の森祇晶監督

 優勝実績のある監督がその手腕を買われ、弱いチームの再建を託されることがある。西本幸雄監督のように、かつては弱かった阪急や近鉄を熱血指導で優勝に導いたエピソードはよく知られている。その一方で、歴戦の名将をもってしても、チームを強くできなかった例もあった。

【写真】現在YouTubeが大人気の名将といえば

 代表的なのが、阪神時代(1999~01年)の野村克也監督だ。

 南海プレーイングマネージャー時代(70~77年)の73年、最下位だったチームを4年で優勝させたあと、ヤクルト時代(90~98年)には万年Bクラスのチームをリーグ優勝4度、日本一3度に押し上げ、楽天時代(06~09年)にも球団創設から2年連続最下位のチームをCSに進出させている。

 だが、それほどの実績を持つ名将でも、直近5年間で最下位3度と“暗黒時代”の阪神だけはどうにもならなかった。

 当初は野村監督も「阪神でもヤクルトと同じように指導すれば、数年である程度の結果は出せるだろう」(自著「阪神タイガースの黄金時代が永遠に来ない理由」宝島社)と考えていた。就任会見でも「3年後にはAクラスか、それ以上のチームにして、『阪神も変わったな』と言われるチームに育てたい」とキッパリ。ヤクルトの再現を期待した虎党も多かったはずだ。

 ところが、監督が替わってもチームは一向に強くならず、3年連続最下位に沈んでしまう。

 チームを変えられなかった理由について、野村監督は「阪神は弱くても人気があり、周囲にチヤホヤされるから、選手に甘えの体質が染みついていた」と回想している。野村ID野球を浸透させようとしても、「ミーティングで選手がろくに話を聞いてくれなかった」という。

 戦力面でも、トレードや外国人などの補強がことごとく失敗したばかりでなく、主力との確執や助っ人の造反劇もあり、彼らにやる気をなくさせたこともマイナス材料になった。

「阪神に行ったのは大失敗だった」と退団後もボヤきつづけた野村監督だが、在任中に井川慶が一本立ちし、自ら“F1セブン”と命名した俊足野手たちの中から赤星憲広、藤本敦士が星野仙一監督時代の03年の優勝に貢献するなど、次代の主力を育てたという意味では、チームの再建に少なからず寄与したと言えるだろう。

著者プロフィールを見る
久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

久保田龍雄の記事一覧はこちら
次のページ
西鉄時代の“知将”も…