次は西鉄時代(51~59年)に3年連続日本一を達成した“知将”三原脩監督だ。

 西鉄退団後も、60年に大洋を最下位から優勝させ、近鉄時代(68~70年)にもV争いを演じるなど、行く先々で“三原魔術”を見せたが、最後に指揮をとったヤクルト(71~73年)では、手腕を発揮しきれなかった。

 最下位に沈んだチームの強化を託された三原監督は、かつて日本シリーズで巨人を3年連続で下した実績から、娘婿の中西太ヘッドコーチとともに、“西鉄師弟コンビ”による巨人の独走ストップも期待された。

 だが、翌71年は6位、72、73年はいずれも4位と3年連続Bクラスに終わった。

 ただし、最後の73年は、新外国人・ペピトーンがまったく働かず、中心打者の荒川堯も左目の障害で8月に離脱と戦力ダウンしたなかで、V9を達成した巨人に4.5ゲーム差の4位と健闘している。現在のショートスターターの走りともいうべき異色継投で阪神の天敵になるなど、“魔術”も健在だった。

 翌74年も指揮をとるはずだった三原監督だが、中西ヘッドコーチを2軍に降格するフロント主導の人事を「無理がある」として自ら退団。直後、日本ハムの球団社長に就任した。もし続投していれば、翌年のヤクルトの通算2度目のAクラス入り(3位)は、三原監督の指揮で実現していたかもしれない。

 また、監督就任直後の70年のドラフトでは12球団最多の16人を指名し、この中から若松勉、渡辺進、杉浦亨らが78年のV戦士になった。

 西武時代(86~94年)にリーグ優勝8回、日本一6度の常勝軍団をつくり上げたのに、3年契約の2年目で解任されてしまったのが、横浜時代(01~02年)の森祇晶監督だ。

 98年に38年ぶりの日本一を達成した横浜は、99、00年も2年連続3位とAクラスをキープ。パ・リーグで一時代を築いた名将に、日本一奪回の使命を託した形だが、守護神・佐々木主浩がメジャー移籍、中心打者・ローズも退団し、戦力は低下していた。

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前監督との“ギャップ”が受け入れられず