ここで注意してほしいのは、「落ち込んだ感情」を受け止めることは嫌な記憶を忘れるうえで効果的だが、「出来事そのもの」を詳細に思い起こしてしまうと、むしろ逆効果となる点だ。前の章で述べた復習の効果によって、その記憶は大脳皮質に移動して長期記憶として残りやすくなってしまうからだ。
落ち込んでしばらく経過したら、その記憶を積極的に消していくことを目指そう。新しい知識や経験を貪欲に吸収していくことが、嫌な記憶を忘れやすくするうえで効果的だ。新しいことを経験すると脳内をめぐる化学物質のドーパミンが豊富に分泌され、それが喜びにつながるとともに、海馬に働きかけて新生ニューロンの増加を促す。
こうした作用が経験を新しい記憶として取り込むことを促進し、逆にその前に起こった嫌な記憶を消去してくれるわけだ。嫌な記憶を忘れるためには、新しいことに好奇心を持ち、わくわくしながらチャレンジすることが重要なのだ。
しかし、チャレンジといっても特別なことである必要はない。日常の範囲でできること、例えば「新しいレストランを見つけて行ってみる」 「本屋に行って今まで読んだこともないようなジャンルの本を手にしてみる」といったことでも十分だ。その小さなわくわく感は記憶に残りやすく、悪い記憶・嫌な記憶を少なくする好循環にもつながるのである。
そして、音楽が喜びの神経回路を活性化させることによって、記憶の残り方に影響を与えているという点も強調したい。音楽によって喜びの記憶が残りやすくなり、嫌な記憶、忘れてしまいたい記憶を残りにくくしてくれるのである。嫌なことがあったら好きな音楽をかけて気分転換することは、記憶の観点から見ても実に合理的な行為だったのだ。
忘れたい経験をしたら、気分転換に運動をしたり、何も考えずにのめり込めるようなゲームに集中したりするのも良い。何かに集中していれば、「記憶の復習」をしている余裕もなくなり、ドーパミンの分泌を促して嫌な記憶を忘れることにつながるのだ。
《実は、不必要な記憶を忘れることが、「新たな記憶を獲得すること」にも役立っている。〝忘却こそが新たな記憶の獲得法"の真意とは? 『忘れる脳力』(朝日新書)で詳述している》