当然ですが、「自分の幸せ」と「人の幸せ」は違います。頭ではわかっているのですが、いろいろ目にすると揺らいでしまうんですよね。
そこで、「自分の幸せリスト」を書き出していくと、全部満たされなくても、その中から「私は、これとこれさえ満たされていれば幸せ」という「必要合格ライン」が見えてきます。無限にウロウロと目移りするのではなく、「私はこれさえあればいい、これがいいんだ」という一線が見えてくる感覚です。
私も、これをやってみるまでは、「あれもやりたい」「これもほしい」と求めてばかりでした。その分、できていないこと、手に入らないものに目がいってしまい、不甲斐なさや焦りを感じてはダメ出しの毎日。とくに20代の頃は、活躍する同業の人たちを見ては、「私もあんな仕事をしたい」「私だって頑張っているのに」と羨んだり、悔しく思ったり……。
でも、今考えてみると、それは頭の中の幸せの基準を“私仕様”にできていないせいで、ブレブレになっていたから。「幸せ」と言われるとピンとこないかもしれませんが、私なりに解釈すると、それは「満足」に重なります。
自分が自分に対して「これでいいのだ」と満足できるラインがはっきりしていなければ、いくら頑張っても永遠に幸せは実感できないまま、先に先に逃げていくばかりです。
■転職の条件は朝の掃除!?
私の知人は、転職先を考えるときに必ず、「毎朝リビングルームに掃除機をかける余裕が持てるかどうか」を想像するそうです。これを聞いたとき、「え? 仕事の内容や条件に全然関係ないよね?」と思いました。
詳しく聞くと、彼女にとって清潔な空間で1日をスタートするのは、気持ちよく生活するための絶対条件。そこに彼女の必要合格ラインがあるのです。だから、朝、掃除をする時間はどうしても確保したい。その分、朝食を手軽なものにしたり、洗濯は2日に1回にするなどして家事の量を調整している、とのこと。「そういうことか!」とヒザを打ちました。
自分が機嫌よくいるために優先すべきことを据えたら、他は潔く目をつぶること。つい、あれもこれも、それなりにちゃんとしたい、平均点をとりたいと思ってしまいますが、自戒を込めて言うならばそれは選択ベタの優柔不断な無限ループ。