プロ野球選手はシーズン終了後、年内中に契約更改を終えることが通常だが、時には球団の提示に納得できず、年を越したり、自費キャンプになった選手もいる(文中の金額はいずれも推定)。
越年、自費キャンプといえば、中日・福留孝介を真っ先に思い浮かべる人も多いはずだ。
死球によるケガでシーズン終盤を欠場した2004年 現状維持の年俸2億円の提示に難色を示した福留は、5度の保留の末、キャンプイン前日の05年1月31日にギリギリでサイン。これがすべての始まりだった。
翌05年も、チームの日本人野手最高の2億4000万円の提示に対し、福留は「今日1回で埋まる差じゃないから」と越年。翌06年1月20日の2回目の交渉では1000万円上積みされたが、「まだ差があります」と突っぱねた。
だが、自費キャンプも辞さない覚悟で臨んだ1月27日の3回目交渉で、500万円の上積みを得て2億5500万円でサイン。「不満と言えば不満だけど、球団が歩み寄ってくれたので、こちらも敬意を払わなければいけない」とコメントした。
さらに首位打者とMVPを獲得し、チームの優勝に貢献した06年オフも、年明け後の第1回交渉で、3億7000万円の提示に対し、4億円を希望していた福留は「言葉が出ませんでした」「唖然としたかな」などと不満をぶちまけ、ついに自費キャンプに突入した。
これに対し、球団側も「(3億9000万円の)岩瀬(仁紀)投手を超えるのは難しい」のスタンスを崩さず、2月22日、3億8500万円で合意したものの、福留は「野球選手はユニホームを着てグラウンドに立つのが仕事。(契約しないと)立てないので契約しました」とスッキリしない表情だった。会見の席上、実は前年の年俸が2億7000万円で、球団側から「少し低く言ってくれ」と頼まれたことも明かしている。
このような事情から、中日ではこれ以上の上積みは無理と判断したのか、同年オフ、4年総額4800万ドル(当時のレートで52億8000万円)でカブスにFA移籍した。