織田信長が進めた兵農分離
戦国大名が台頭し始めた当初、下級家臣の多くはふだんは農業を営み、合戦時だけ兵役を務める半農半士の土豪(どごう)だった。このため収穫期は遠征ができず、その上、寄子が各地に散っているので集団訓練ができなかった。この問題を解決したのが織田信長である。
信長は兵農分離を進めて下級家臣を専業武士「足軽」とし、城下町に住まわせた。この結果、計画的な集団訓練と、鉄砲隊や騎馬隊のような兵種別軍隊「備(そなえ)」の編成が可能になり、軍が強化された。さらに大名たちは、逃走すれば改易に処すなどの厳しい軍律や規則を徹底し、将兵の独断行動で戦略が瓦解(がかい)しないよう取り締まった。
大規模な家臣団や軍隊は、何層もの工夫によって運用されていたのだ。
「通い婚」から「嫁取り婚」へ
そして、家臣団と共に、戦国大名を支えたのが女性たちである。
鎌倉時代以降、武士は「一所懸命(いっしょけんめい)」に自らの所領を守ってきた。所領を守らなければならないので、基本的に、先祖伝来の地を離れるわけにはいかない。そこで、それまでの通い婚に代わり、男性が妻として女性を迎える嫁取り婚が一般的となっていき、室町時代には、家長としての男性が家族を支配するような家父長制的な家族制度が確立した。
そのため、戦国時代には恋愛結婚はまれであり、基本的には両家の相談で結婚が決まった。当然、戦国大名家では婚姻も政略的に行われた。
政略結婚は、文字通り政略のための結婚である。同盟の証として女性が嫁ぐわけだが、これは実質的な人質にも等しい。万が一、実家と婚家が対立し、戦争にでもなれば、妻が殺される可能性もあったのである。
このような形の政略結婚に悲劇的な側面があったことは否定できない。しかし、婚姻によって両家の平和が保たれていたのも事実である。また、嫁ぐ際には女性は「敷銭(しきせん)」と称する財産を婚家に持参していった。財産は金銭とは限らず、土地であれば、毎年、そこから収入が得られた。こうした財産があればこそ、婚家において女性に発言権が与えられていたことは無視できない。