城主にも戦国大名にもなった女性たち

 戦国大名の居館は、「表」と「奥」で構成されていた。「表」は政務を担う公的な空間で、「奥」は妻や子が暮らす私的な空間である。「奥」には、夫である戦国大名以外の男性は基本的に立ち入ることはできない。ただし、江戸時代と違って、妻が「表」に出て政治に関与することは禁止されていなかった。妻が夫に従うべきだとする儒教道徳は、戦国時代において社会規範とはなっていなかったためである。

 実際、戦国時代には、女性が統治にあたることもあり、「女城主」と呼ばれた井伊直虎の例はよく知られている。

 今川義元の母、寿桂尼(じゅけいに)も「女戦国大名」と呼ばれ辣腕を振るった。公家・中御門宣胤(なかみかど・のぶたね)の娘で、駿河の戦国大名、今川氏親(うじちか)の正室となった彼女は、氏親の死後、14歳で家督を継いだ実子の氏輝(うじてる)を後見した。氏輝が早世した後、今川家で家督争いが起きると、氏輝の弟で実子の義元(よしもと)を擁立して勝利を果たす。この間、自ら領国の支配にあたったが、義元が桶狭間の戦いで敗死し、今川家の栄光に陰りがみられるようになる中、駿府で没している。

 北条氏康の娘として生まれ政略結婚で武田勝頼に嫁いだ北条夫人のように、武田家と北条家の同盟が解消されても武田家に残り、滅亡に殉じた女性もいた。能動的に生きた戦国の女性たち。妻が夫に従うことが求められたのは、江戸時代になってからのことだった。

(構成 生活・文化編集部 上原千穂)

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