その広島には、白浜以上にディープなファンの間で注目されつづけた捕手がいた。1軍出場わずか2試合ながら、11年現役を続けた鈴衛佑規だ。
96年にドラフト6位で入団した鈴衛は、99年9月22日の中日戦で8回に代走で1軍初出場をはたすと、その裏にマスクをかぶり、同25日の横浜戦でも代走に起用された。だが、鈴衛にとって、この横浜戦が現役最後の出場となった。
当時チームの捕手は、西山秀二と瀬戸輝信で固定され、鈴衛が割って入る余地はなかった。その後も石原慶幸、倉義和ら強力なライバルたちが台頭。さらに前出の白浜が入団してきた03年オフ以降、鈴衛は一部のファンの間で毎年のように戦力外候補に挙げられ、残留が決まるたびにネット掲示板に「 鈴 衛 残 留 」の文字が躍った。
そして、プロ10年目の05年、2軍で打率.359の好成績を残した鈴衛は、6年ぶりに1軍登録され、9月14日のヤクルト戦の7回、打者・栗原健太のとき、ネクストサークルに立った。だが、ヘルメットをかぶらず、キャップ姿の“囮要員”は、代打・森笠繁が告げられると、そのままベンチに下がっている。
翌06年も2軍で48試合に出場。ドラフト前の第1次戦力外通告では、鈴衛の名はなかったが、ドラフト後、高校生捕手・会沢翼の入団が決まると、ついに戦力外通告を受けた。
11年間も現役を続けられたのは、やはり捕手というポジションの特殊性と真面目な人柄が大きかったと言えそうだ。
引退後の鈴衛は、07年に広島、09年から阪神のブルペン捕手になり、14年のオールスター第2戦では、全セの打撃練習の打撃捕手を務めた。
最後は捕手以外でコアな記録をつくった“15年選手”を紹介する。NPB史上最も遅い12年目で1軍デビューをはたした巨人・渡辺政仁だ。
北陽高時代は、エース・4番の二刀流。86年、ドラフト1位のPL学園・桑田真澄とともに、「将来は2人で左右のエースに」と期待され、3位指名で巨人入りした。