野球界の偉人が、また鬼籍に入った。一世を風靡した「ID野球」で、「データ」の印象が強かった野村克也さん。努力の陰に人間味があふれていた。
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突然の訃報だった。選手として監督として、輝かしい実績を上げた野村克也さんが11日、亡くなった。84歳だった。
テスト生として南海に入団し、戦後初の三冠王、歴代2位の657本塁打に加え、「生涯一捕手」を宣言し45歳まで現役を続けた。その原点は、監督として南海黄金時代を築いた鶴岡一人さんだった。鶴岡さんの同郷の後輩で、ヤクルトや西武を率いて両リーグで日本一を成し遂げた広岡達朗さん(88)が言う。
「野村の素材を見いだし、レギュラーに育て上げたのは間違いなく鶴岡さんの功績。野村も努力でそれに応えた。でも現役の最後に西武に来て、西武球場の階段を上るのが『キツイ』とこぼしていてね。確かにあの球場の階段は急なんだけど、何だ元気ないなという印象は受けたね」
鶴岡さんの薫陶を受け、攻守両面でインサイドワークに優れた選手に成長、34歳からは南海の監督も兼任した。しかし、指導者として開花したのは1990年にヤクルトの監督に就任してからだ。古田敦也を当代一の捕手に育て上げ、長距離打者の池山隆寛、リリーフエースの高津臣吾(現ヤクルト監督)らを擁して9年間の在任中にリーグ優勝4回、うち3回日本シリーズを制覇した。
なかでも同世代で現役時代は同じ捕手としてしのぎを削った森祇晶さんが監督だった西武と2年連続で顔を合わせた日本シリーズは、球史に残る名勝負になった。92年は3勝4敗で森西武に苦杯を喫した野村ヤクルトは、翌93年には逆に4勝3敗で雪辱を遂げた。これについて『捕手ほど素敵な商売はない 森祇晶vs.野村克也』の著者、松下茂典さんが振り返る。
「一球一球に野球の醍醐味が凝縮された名勝負でしたね。知将同士がお互いに、次にどう動くのかを読み合う心理戦が随所にちりばめられていた。当初の取材にはお互い、キツネとタヌキの化かし合いのようにぼかしていたことも、月日が経つと次第に当時の心境を交えて話してくれました」