3位 本多正信 / 家康から親しく「友」と呼ばれた名参謀

 本多忠勝とは遠縁の同族で、代々の当主は弥八郎を称す。

 三河一向一揆に与した酒井忠尚配下だったことから、敗北後は他国に潜伏。加賀国にも足跡を残しているから、一向宗の強い地域を転々としたとも考えられる。

 浪人生活を送ること十数年、大久保忠世ら取り成す者があって帰参を許されると、その後は家康の知恵袋として、なくてはならない存在となった。

 関東入国に際しては相模国甘縄に1万石を与えられ、慶長五年(1600)には上杉討伐に従軍。石田三成挙兵の知らせが届くと、中山道を進む秀忠の参謀役を命じられた。

 関ヶ原の戦い後、上洛に応じない島津義弘・忠恒(家久)父子に対して誓書を出すなど、2人の警戒心を和らげた上で上洛を促し、伏見城で謝罪させることに成功した。九州遠征の手間を省いたのである。この功績により2000石が加増された。

 家康が将軍職を秀忠に譲り、駿府に移る際には秀忠の指南役に指名され、初期の幕政を主導した。

 嫡男の正純も父に似た知恵者で、大坂冬の陣の和睦後、大坂城の堀をすべて埋めたのは正純の計略によるものだ。 

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』から抜粋