「早稲田にはなぜ医学部が無いんだろう?」「箱根駅伝に慶應が出場していないのはなぜ?」 多くの人が感じているそんな疑問から、両校の経営判断の違いと今後を読み解く。AERA 2019年9月16日号に掲載された記事を紹介する。
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慶應義塾大学にあって早稲田大学にないもの。その筆頭が、医学部だ。
きっかけは戦前にさかのぼる。当時、早慶両校とも、自然科学系の学部を備えた総合大学になることを目指していた。医か、理工か。結果、慶應は医学部を、早稲田は理工学部を設立した。両校の判断が分かれた背景の一つを、『戦前期早稲田・慶應の経営』の著書がある國學院大学の戸村理准教授(37)はこう語る。
「慶應には初代医学部長になる北里柴三郎とのつながりがあり、早稲田には東京工業大学の前身校の校長を歴任した手島精一とのつながりがありました」
もちろん、それだけが理由ではない。戸村准教授によると、慶應は、医学部と病院を作ることで、授業料収入に加えて病院収入による自活と財源の多様化ができると考えた。一方早稲田は、産業界で理工系人材の需要は大きく、学生は就職に困らない。ゆえに理工学部なら授業料収入は確保できると考えたという。
「人材と資金、二つの問題を同時にクリアする必要があったわけですが、財源の多様化を考えた慶應と授業料収入の確保を考えた早稲田。両校の経営判断の違いが興味深いです」(戸村准教授)
経営多角化か、「本業」への集中か──。現代でも多くの経営者を悩ませる大きな選択だ。早慶両校もこのような岐路を経て、現在の姿に行き着いたのだ。
ただ、早稲田は医学部を諦めたわけではない。
原点となっているのは、「ほぼ早稲田医学部」とも言える存在だ。1906年、大隈重信が会長を務める「同仁会」が、早稲田大学の敷地内に「東京同仁医薬学校」を設立。やがては早稲田の医学部になると思われていたが、経営難から廃校に。以来、早稲田にとって医学部は「大隈以来の悲願」となる。
50年から53年にかけては日本医科大学との提携交渉があったが頓挫。56年には校友の河野一郎農林大臣が国立病院を早稲田大学の付属病院として払い下げたいと発言、物議をかもした。57年の創立75周年記念式典では、当時の大濱信泉総長が医学部設置を「長年の宿願」と発言したが、実現には至らず。厚生省(当時)が医師過剰等の将来予測を理由に都内での医科大学新設に消極的だったためなどと言われている。
70年に就任した村井資長総長も創立100周年記念事業構想の核心として医学部の新設を打ち出したが頓挫。近年では理工学部出身の白井克彦総長の下で米国のようなメディカルスクール構想が検討されたが、現在もまだ医学部設置は実現していない。