※写真はイメージです(gettyimages)
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 徳川家康は、関白秀吉に「私は殿下のように名物の茶器や名刀は持たないが、命を賭して仕えてくれる五百ほどの家臣が宝」と、控えめに誇ったという。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、徳川家を支えた忠臣、猛将、智将などを、歴史学者の小和田泰経氏が採点。各武将の生き様と能力を解説している。今回は、「忠臣」で採点した。1位の天野康景は先日報じたが、「犬のように忠節」と称賛された徳川の家臣たちの中で2位と3位に選ばれたのは――。

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2位 鳥居元忠 / 片足を引きずりながらの最期の奉公

 鳥居氏は商いで成功を収めた股肱の臣の家で、蔵に蓄えが溢れていたことから、元忠の父忠義は人質時代の家康に衣服や食料の援助を惜しまなかったとされる。

 元忠も13歳のときから、駿府で人質生活を送る家康に仕え始め、旗本部隊の将として数々の戦功を挙げた。三方原の戦いでは斥候中に銃撃を受け、片足が不自由になった。

 天正十年(1582)の甲斐平定戦では水野勝成とともに古府中の守備を託され、北条氏忠が1万の軍勢を率いて郡内に侵攻したと知ると、わずか2000騎で奇襲を仕掛け、大勝利を博した(黒駒の戦い)。

 天正十四年(1586)に上洛した際、豊臣秀吉から叙爵の内示があったが、徳川家以外から恩恵を受けるわけにはいかないとして、これを辞退。九戸一揆の平定に際しても秀吉からの感状を辞退した。

 慶長五年(1600)、家康が上杉討伐のため東下するに際し、松平家忠・内藤家長・松平近正とともに伏見城を託され、石田三成からの降伏勧告を断固拒絶。西軍10万人相手に力戦のすえ討ち死にした。ともに戦死した家臣57人、兵700余人、足軽数百人に及んだ。

3位 内藤家長 / 怪力無双にして放つ矢は大気を震わす

 祖父の義清は松平信忠・清康に仕え、上野下村城を与えられた、岡崎五人衆の一人であったというから、武芸に秀でていたことがうかがえる。

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西軍足止めの大役を果たし、討ち死にした…