哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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大阪のダブル選と府議市議選が終わり、維新が圧勝という結果が出た。注目された選挙のあとなので、ふだんならいろいろな人がコメントするはずだけれど、これについて語られた言葉が少ない。私も訊かれたらどうコメントしたものか当惑していた。私の周りには橋下府知事以来の大阪維新の業績を評価する人が一人もいないからである。だから、誰がどういう理由で支持しているのか、納得のゆく説明を聞いたことがない。むろん、それは私の交友範囲が偏っているということに過ぎないのである。実際には、維新の政治によって現に恩沢をこうむっており、この体制の永続を願う人たちが大量にいて、私がその人たちと出会わないというだけのことなのである。
しかし、考えてみるとこれはかなり深刻な話である。そこまで支持者と反対者が排他的に対立して、その間に「行き来」がなくなっているのである。これほどの政治的立場の分断を私は20世紀のうちには経験したことがなかったと思う。
私のかつての岳父は自民党の国会議員を5期務めた人だが、戦前は日本共産党の幹部で特高に逮捕されて拷問された経験を持っていた。その叔父は社会党内閣の農相だったが、戦前は右翼的な農民組合の指導者だった。政治家として実現しようとしていた目的において二人にそれほど変わりがあったわけではないと思う(現に仲がよかった)。その目的を実現するために選んだ組織が違ったというだけのことだった。そういう人たちが昭和の政界には混在していた。「政治的立場は違うが、人間は信じられる」という関係があったからこそ議会内でのすり合わせが可能だったのだと思う。
今の政治から失われたものがあるとすれば、それはこの「立場は違うが、人間は信じられる。仮に敵味方に分かれても対話はできる」という人間的なつながりの厚みだと思う。古来、政治では、政策そのものの当否よりもそれを提案する人物の信義や器量が重んじられた。だから、激しい対立が、領袖同士の対話で一夜にして和解に至るということがしばしばあった。その風儀がほぼ失われたのである。そのことの歴史的意味はたぶん私たちが思っている以上に重い。
※AERA 2019年4月22日号