ペスト菌の発見

 北里は前述の破傷風、ジフテリアの血清療法とツベルクリンの開発に加えて、1894年(明治27年)の香港における流行時にペスト菌を発見している。この時、明治政府は国の威信をかけて、東京帝国大学の青山胤通教授を団長とする調査団を派遣するが、青山博士は患者の遺体を剖検中にペストに感染して危うく命を失うところであった。危険だから早く帰国せよという国の命令を無視した北里は、臨床検体から採取した菌を純培養、マウスに接種して発病させるモデルを確立し、翌年には英国の医学雑誌Lancetに報告した。

 同じ時期にスイス出身でベトナム・ハノイのパスツール研究所に勤務していたアレクサンドル・イェルサンがほぼ同様の手法でペスト菌を発見した。両者は当時最新の研究法であったグラム染色で、北里菌は紫色(グラム陽性)に染まると報告したのにイェルサン菌は紅色(グラム陰性)に染まるとしていた。後にこの二つの菌は同一であることが判明したが、実際にはグラム陰性であり、第一発見者の栄誉はイェルサンらフランス人チームに与えられ、現在もペスト菌の学名はイェルサンの名にちなんでYersinia pestisである。

 グラム染色は現在でも肺炎の病原体診断に日常的に用いられる技術であるが、染色操作に慣れないと結果を誤ることがある。おそらく、北里の部下の染色ミス、あるいは培養の課程で菌の取り違えを生じた可能性がある。北里の偉大なところは「われ、あやまてり」と負けを認めたうえで、単に微生物の発見競争に留まらず、感染拡大を防止するために患者の隔離と検疫・上下水道整備などの「伝染病予防法」の成立や、インフラの整備、社会に衛生思想を広めたことであろう。

猫を愛でた北里の“提唱”

 愛家であった北里はネズミがペスト菌を媒介することから、「一家に一匹猫を飼う」というキャンペーンを行っている。大正に入ってからは、恩賜財団済生会芝病院(現東京都済生会中央病院)初代院長、府県医師会を統合した大日本医師会の初代会長、1923年(大正12年)には日本医師会を創設して初代会長に就任、翌年には男爵を叙爵され、80歳になった1931年(昭和6年)、脳溢血で亡くなる最晩年まで医療行政や衛生の普及に努めた。誠にあっぱれな医学者としての生涯である。

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