『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたかについて、独自の視点で分析する。今回は、近代医学の父として知られ、2024年をめどに千円札の「顔」になることが決まった北里柴三郎を「診断」する。
【北里柴三郎がデザインされた新しい千円札のイメージ図はこちら!】
* * *
大学や企業体は創立者の影響を強く受ける。俗に創立者のDNAというが、正確には「ミーム(教育や習慣、技能といった文化的遺伝情報)」というべきである。このたび新千円札の肖像画に決まった明治の医学者、北里柴三郎のミームは、彼が初代医学部長を務めた私学の雄、慶應義塾大学医学部と、彼の私設研究所から発展してノーベル賞学者大村智博士を輩出した北里大学、北里研究所、そして初代会長を務めた日本医師会に強く流れているように思う。
北里柴三郎は1852年(嘉永5年)、肥後国阿蘇郡小国郷北里村の庄屋の家に生まれた。8歳から四書五経を学び、長じて細川藩の藩校時習館に入寮したが明治維新で廃校となったため、熊本医学校に入学。1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ転学した。既に医学を学んでいたため、教授に論争を吹きかけて留年を繰り返したが、1883年(明治16年)無事に卒業、医師の長与専斎が局長だった内務省衛生局へ就職した。
■ノーベル賞を受賞できなかった理由
2年後、同郷の緒方正規の紹介でベルリン大学へ留学する。結核菌を発見したロベルト・コッホに師事し、1889年(明治22年)には世界に先駆けて偏性嫌気性菌である破傷風菌の培養に成功、さらに患者に抗毒素抗体を投与する血清療法を開発した。翌年には、ベーリングと共にこの血清療法を当時有効な治療法のなかったジフテリアに応用した。この業績でノーベル医学生理学賞候補となったが、共同受賞の習慣がなかったため、ベーリングの単独受賞となった。
帰国後は、福沢諭吉と長与専斎の支援を受けて伝染病研究所を設立、初代所長となり内務省管轄の国立伝染病研究所となった後もこれを率いていたが、1914年(大正3年)政治的理由で文部省の所管となり、医科大学学長であった青山胤通(たねみち)が所長を兼任することになった。先輩で恩人でもある緒方正規(まさのり)との「脚気菌」説論争で母校東京帝国大学と関係が悪化していた北里は辞任して、私費を投じて私立北里研究所(現・学校法人北里研究所、北里大学の母体)を設立した。そして亡き福沢諭吉の恩義に報いるため1917年(大正6年)慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となった。福沢は1873年(明治6年)に三田に西洋医学を教育する慶應義塾医学所を設立したが、わずか7年で廃校となり、医学部の復活を切望していたからである。