

25万棟の家屋をなぎ倒し、6434人が亡くなった阪神・淡路大震災。M9.0を記録し、1万8千人以上の命を奪った東日本大震災。超弩級の災害は日本の社会をどう変えたのか。ジャーナリスト・外岡秀俊氏がリポートする。
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平成の30年を、私は「災害記者」として生きた。
初の本格取材は、平成元年の1989年10月、米サンフランシスコ湾岸で起きたロマプリータ地震だ。駐米特派員として2日目に現地に入り、1週間にわたって高速道路倒壊、橋の一部崩落などを目の当たりにした。停電。電話不通。航空券や宿の予約システム崩壊。世界が直面した初の「都市型震災」の混乱に、息をのんだ。
●空から眼下に広がる眺めは、「黙示録」を思わせた
日本から送られてきた紙面を見て目を疑った。日本の土木・建築の専門家の大半が、「わが国の耐震設計は、関東大震災クラスにも耐えられる。この程度の地震なら大丈夫だ」と断言するコメントを寄せていたからだ。
詳しい被害調査を待たずに、そう断じる姿勢には、バブル経済の頂点にあって、米国のインフラ老朽化や技術水準を下に見る優越感が、にじんでいた。
95年1月17日未明、「誇り」は打ち砕かれた。阪神・淡路大震災は、死者6434人、全半壊家屋25万棟というこの時点で戦後最悪の被害をもたらした。150万人都市神戸を直撃する内陸直下型地震だった。
アエラ編集部にいた私は当日神戸に入り、翌日ヘリコプターで上空から被災地を見た。のちに「震災の帯」と呼ばれる震度7の地域は、巨大な拳が打ち下ろされたように破壊され、煙をあげていた。眼下に広がる眺めは、「黙示録」を思わせた。
2011年3月で早期退職をする直前の11日、朝日新聞東京本社が震撼した。倒れかけのロッカーを支える仲間とテレビを見て、思わず、うめいた。日本の観測史上最大のM9.0を記録した東日本大震災は、津波で1万8千人以上の命を奪い、3700人もの震災関連死を招いた。