50年代から60年代にかけては土地の所有者である日本鋼管が住民を強制的に立ち退かせようとする動きもあったが、70年代にはほとんどなくなっていたという。やがて川崎市は、住民から住民税や家屋の固定資産税を徴収するようになったものの、土地の問題がうやむやなままなので、下水工事などは住民が金を出し合って進めた。区画整理もされず、バラック群が基になった町並みは過密状態に。車が通れないほど狭い道もあり、ひとたび火事が起これば一気に燃え広がった。
91年には、川崎区内の池上町や桜本、大島、浜町といった生活環境などの課題を抱えるおおひん地区で「街づくり協議会」が発足。池上町でも住民側から、土地の問題や生活環境の改善などの要求が挙がり、日本鋼管も行政もテーブルについたが、結局、結論は出なかった。
●土地の問題を解決して、次の代に街を引き継ぎたい
並行して、池上町のあり方にも変化が起こる。在日コリアン1世の高齢化が進み、代わって町づくりの中心となった2世は、在日コリアンというアイデンティティーや池上町というコミュニティーにそこまで思い入れを持たない者も多かった。中には自分は池上町を出て、住居の跡地にアパートを建設、そこに日本人やニューカマーの外国人が入居するケースもあった。旧住民たちは「今、町会費を払っているひとは住民の半分もいない」と嘆く。
高齢化、コミュニティーの弱体化……特殊だとされる池上町も、多くの街と同じ問題にぶつかっている。
戦前から戦後にかけての混乱の歴史を経て、土地の問題を抱えてきたのは池上町だけではない。京都府宇治市のウトロ地区と呼ばれる在日コリアン集住地区は、立ち退き反対運動の末、住民側が土地の一部を買い取り、17年末に市が新たに集合住宅を建設。そこに入居する形で和解に至った。日本も批准している国際人権規約が強制立ち退きを人権侵害とみなしていることを根拠に、国際社会にも支援を訴えたことが解決につながったという。