歴史は数々の「決断」を積み重ねている。よしあしの分岐点はどこにあるのか。
「リーダーの決断で言えば、源頼朝と木曽義仲が対照的です」と語るのは、日本中世政治史などが専門の東京大学史料編纂所教授・本郷和人さん。どちらも平安時代末期、おごる平家を倒すのに活躍した源氏の有力武将だ。頼朝は鎌倉幕府を建て、義仲はその頼朝が送った軍勢に討ち取られた。
頼朝は1180年、富士川の戦い(静岡県)で平家を破る。頼朝は追撃を命じ、一気に京を制圧しようと動いたが、信頼する家来から「われわれが今するべきことは関東の平定であって、京の制圧ではない」と進言され、本拠地の鎌倉にきびすを返す。
「功を焦らず、部下の意見に耳を傾け、力を蓄える選択を下した頼朝の見事な判断と言えるでしょう」(本郷さん)
対して、功名心にはやり、墓穴を掘ってしまったのが頼朝のいとこにあたる義仲だという。
義仲は頼朝に遅れること3年、現在の長野県北部で挙兵して倶利伽羅(くりから)峠の戦い(富山・石川県境)で大勝を収める。義仲は敗走する平家を追走し、一気に京へと西上した。平家を都から追い落とすことに成功するも、
「その後、後白河上皇との政治的な駆け引きに失敗を重ね孤立してしまいます」(同)
拙速を象徴する判断ミス。本郷さんは「歴史に『もしも』は厳禁ですが……」と前置きしつつ、「北陸には反平家の武士たちが多かった。もし義仲が頼朝のようにじっくりと腰を据えて勢力圏を拡大していれば、西国の平家、東国の頼朝、北陸の義仲という鼎立(ていりつ)が築かれていたかもしれない」。大局的な視野を持ち、信頼できる仲間や部下の言葉に耳を傾けられるかどうか。ここが、頼朝と義仲を勝者と敗者に分けたポイントだという。
では、リーダーに仕える身では、何が重要になるのか。なんと、「そもそもとして、『決断を下す』という意思を持つことではないか」と説明するのは、『牟田口廉也「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)などの著書を持ち、現在は愛知大学で教鞭をとる近現代史研究者・広中一成さん。