長男の誠さん(左)を先頭に、次男・謙二さん(右)、三男・進さんが力を合わせて清風荘の再開を目指している。彼らは地元で「地獄3兄弟」と呼ばれ、南阿蘇村の復興の旗手となっている(写真:清風荘提供)
長男の誠さん(左)を先頭に、次男・謙二さん(右)、三男・進さんが力を合わせて清風荘の再開を目指している。彼らは地元で「地獄3兄弟」と呼ばれ、南阿蘇村の復興の旗手となっている(写真:清風荘提供)
自分たちの被災の経験を多くの人に語り継ぎ、後世の糧としてほしい。訪れた外国人観光客を前に誠さんの説明にも熱がこもる(写真:清風荘提供)
自分たちの被災の経験を多くの人に語り継ぎ、後世の糧としてほしい。訪れた外国人観光客を前に誠さんの説明にも熱がこもる(写真:清風荘提供)

 被災地の復興の最大の障壁は「風評」と「風化」だ。16年4月に本・大分を襲った熊本地震。世界有数のカルデラで知られる活火山「阿蘇山」は、熊本を代表する観光資源であり、古くは山岳信仰の現場として崇(あが)められてきた。その山懐に抱かれるように南阿蘇村はある。この地で200年続いてきた老舗温泉旅館「地獄温泉清風荘」を2人の弟とともに経営する河津誠さん(56)は今、復興の正念場にいる。

【写真】訪れた外国人観光客を前に、説明にも熱がこもる河津さん

 あの日、清風荘には宿泊客、従業員を含め51人がいた。熊本地震は震源地の近くで震度7の揺れを観測した翌々日の未明、それを上回る規模の本震が発生したことで知られる。地震によって宿の窓ガラスは割れ、宿泊者は駐車場に避難。切り立った山々に囲まれた宿に通じる村道は、標識を残して崩落。歩いて避難することが困難だった。一時的に清風荘は完全孤立の状態に陥り、後に自衛隊のヘリコプターによって全員が救助されることになる。

「あの一瞬で収入がゼロになりました。年間、宿泊を入れるとおよそ5万人の方に利用していただいていましたので、これまでに、のべ10万人以上のお客様を失ったことになります」

 復興の足かせとなったのは地震だけではない。震災の2カ月後に阿蘇地方を襲った豪雨によって大量の土砂が流れ込んだ。そして、八つあった温泉は一つを残して泥に埋もれ、明治中期に建てられた旅館は母屋以外、建物の解体を余儀なくされたのだ。地震に続き、追い打ちをかけるような豪雨災害。それでも温泉の再開に向けて、河津さんは復興を諦めていない。その原動力となっているのは、地震直後のある体験だった。

 地獄温泉に湧く青白色(せいはくしょく)の硫黄泉の源泉は、古くからこの地に湯治にやってくる人々の傷を癒やした。唯一残った源泉は「すずめの湯」と呼ばれ、世界でも珍しく、源泉にそのまま浸かることができる。河津さんは最後の救助ヘリが飛び立つまでの間、温泉宿の命でもある源泉がどうなっているか、確認に走った。そこで目に飛び込んできたのは、いつもと変わらず、渾々と湧き出る源泉の姿だった。

次のページ