鎌倉時代になると、栄西をはじめとする留学僧らを通じて宋の禅僧がおこなっていた喫茶の風習が伝わり、僧侶や武士に広まります。同時に、武士の間では闘茶が大流行。彼らがおこなった闘茶は、お茶を飲み比べて産地や茶種をいい当て、金品を賭けるもの。あまりの人気に貴族にも広がりをみせ、幕府から禁止令が出されるほどでした。
茶道具も注目されはじめ、室町幕府の歴代将軍は豪華な唐物(からもの=中国の道具)集めに熱中します。応仁の乱で世相が一変すると、貿易都市・堺の商人が茶人として活躍するようになり、その財力に目をつけた織田信長が茶道具を領地以上に価値のある「ステータスシンボル」へと押し上げました。信長がはじめた政治利用のためのお茶を、豊臣秀吉が貴族文化に代わるものとしてさらに進めたことから、お茶は武家のたしなみとして引き継がれていきます。
それと前後して15世紀半ばには、あたらしいお茶の概念「わび茶」が生まれました。村田珠光(じゅこう)によって精神性が重視されるようになり、武野紹鴎(たけのじょうおう)を経て、千利休が登場するという流れです。
利休は堺の商家出身ですが、多くの茶道具を所有していた珠光や紹鴎に比べればお金がありませんでした。経済的なハンディを上回る創意工夫こそ、利休の真骨頂でした。花入に水を溜めて花弁を浮かべたり、唐物でも下等とされる品をわざわざつかうなど、斬新なアイデアをくり出すことで「宗易(利休)の茶はおもしろい」という評判を高めていきました。
信長、秀吉に重用されて好きなだけ唐物が買えるようになっても、利休の態度はいっこうに変わりませんでした。それどころか、窮屈極まりない二畳の茶室をつくったり、秀吉が嫌う黒をあえて茶碗に取り入れたりするなど、むしろ先鋭化していきました。よいとされる茶室で、よいとされる道具を用い、よいとされる点前をしていた従来のお茶。それに対して、自分がよいと思う茶室、自分がよいと思う道具、自分がよいと思う点前を“みずからつくる”のが利休のお茶でした。利休を境に、お茶の自由度が飛躍的に上がったのです。