お笑い芸人のマキタスポーツさんによる「AERA」の連載「おぢ産おぢ消」。俳優やミュージシャンなどマルチな才能を発揮するマキタスポーツさんが、“おじさん視点”で世の中の物事を語ります。
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「みんなが知っている歌がない」とお嘆きの諸兄にお伝えしたい。
いつごろからか、世の中は「自分らしさ」という呪いに悩まされるようになった。これを私は「一億総表現時代」と言っている。これほどまでに「君は君のままで生きていいんだよ」という自由を獲得した時代はかつてない。そういう風潮が顕著に表れているのがキラキラネームだろう。世間にはびこる“キラキラ化”については以前ここに書いた。キラキラ化とは、要約すると「オリジナル幻想」のことと思われたし。キラキラネームとは“名前の自由化”のことであり、親戚とか、親とか、隣近所の目、意見に振り回されず、自分が好きなようにオリジナリティあふれる名前をつけていいということ。結果、巷(ちまた)には珍名が溢れかえることになった。「一億総表現時代」とは、一方で、皆が“作家”になったようなものなのである。
本題。要するに、作家性が問題なのだ。
作家といえば、アーティストだが。「みんなが知っている歌がない」という嘆きの裏には、深淵な問題が隠されているわけである。みんなが知ってる歌がないのではなくて、逆に「名曲」が多すぎることが問題なのだ。
ちなみに「名曲」と書いたが、真の意味での名曲のことではない。“名曲ぶった曲”、あるいは、アーティストや、レコード会社に過保護にされ、生まれた瞬間から名曲であることを運命付けられたブクブクに太った曲のことをここではカギかっこ付きの「名曲」とする。
上段で書いた、「キラキラネーム」、または「名前」を「名曲」と置き換えてみてもらいたい。つまりはそういうことなのだ。
作家の権利が保障されたのは20世紀以降のこと。理由は「大衆」の登場にある。