しばらくして、広報部から電話がかかってきた。1Fの事態に関するプレス文の英訳をしてほしい、との要請だった。原子力発電所の全電源喪失事故、という未曽有の事態について、技術的に理解し、的確に英訳できる翻訳者がみつからなかったからだ。次々と発表されるプレス文を徹夜で英訳し、翌日の昼に一旦帰宅して仮眠を取った。夕方目を覚ましてTVをつけたところ、1号機が水素爆発したという衝撃的な映像が飛び込んできた。急いで出社した。それから半年間、東京電力本社を拠点として、主に海外の原子力機関と連携しながら、事故対応に従事した。
事故発生から4週目となる4月6日には、国際原子力機関(IAEA)の調査団の通訳兼技術ガイドとして、1Fの現場に入った。当時、さらなる水素爆発を回避するための対策を検討中のタイミングであり、まったく予断を許すことができない状況だった。その修羅場のなか、崩れ落ちた3号機の原子炉建屋等の想像を絶する光景を、装着した全面マスクごしに目にした。全面マスクはあまりに不快で、装着して15分も経たないうちに激しい頭痛が襲い、吐き気を催した。しかし、震災発生以来、一度も帰宅せずに過酷な現場で対応し続けていた仲間のことを考えると、弱音をはいている場合ではなかった。
事故対応にあたり、IAEAと並んで東京電力を強力に支援してくれたのが、米国原子力産業界だった。全米の電力やメーカーから10名前後のベテランエンジニアが、3月下旬から東京電力本社に数週間交代で詰めてくれ、無償で技術的な助言を提供してくれた。
しかし、当初東京電力はこの非常にありがたい支援の申し出をどのように受け止めるべきか、相手の真意を測りかねていた。このようななか、筆者は米国チームとのコーディネーター役を任され、1Fの状況や課題を英語で伝えながら、米国からどのような支援があると助かるかなどについて昼夜を問わず議論を重ね、対策を実行に移した。このときに予想もしない形で役に立ったのが、スタンフォード大学GSB(経営大学院)で受講したTouchy Feelyのスキルである。