作家の天童荒太さんが、小説『ペインレス』を上梓。心の痛みのない女性と肉体の痛みを失った男性を描いた意欲作でもある同作について、その思いを語った。
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<もし、人が痛みを感じなくなったら、個体としての人間は、健康や生命の維持に困難が生じるけれど……人間の集合体である社会や世界は、同情や連帯感を失って、滅亡の危機に陥るかもしれません……>
会社員・貴井森悟は海外赴任中に爆弾テロに巻き込まれて重傷を負い、一切の痛みを感じない肉体となった。森悟を診察した麻酔科医・野宮万浬は、彼に強い関心を抱き性的な関係を迫る。万浬は心の痛みというものを生来持たぬ特異な人間だった。冒頭の引用は、万浬と対話する森悟のことばだが、物語は二人の出会いを軸にしながら展開する。
「20年も前、無痛症という肉体に痛みを感じない人が実際にいると聞いたのがきっかけです。それから少しずつ研究を進めて痛みについての考察を深めてきました。そこで、もし心に痛みを感じない人間が存在したとしたら、肉体の痛みに対するアンチテーゼを、痛みとは何かを、表現できるのではないかと考えました」
最初に予想したのはサイコパスな人間がからむサスペンスミステリーか、失われた痛みを愛の力で回復するといった感動の物語であった。しかし読み進むうちに、そんな期待は拒絶される。
「心に痛みを感じないということは、愛する人を失う痛みもないので愛の物語は成立しない。ただし性愛はどうなのか。肉体の痛みと心の痛みを失った者の性愛がどのように深まり、断絶するのか、誰も書いたことのない領域で、表現者として強い表現意欲をかきたてられました」
異様なシチュエーションで展開する性愛描写は鮮烈にして繊細だ。そしてそれは身体性が喪失し、バーチャルなものに快楽を求める風潮へのアンチテーゼとも読める。さらに万浬の過去にからむさまざまな人々の存在。一つ一つが長編小説になりそうなほど印象に残る。通底するのは痛みとは何かの問いかけである。そして森悟が遭遇したテロの背景もまた、現代世界が直面する矛盾と無縁ではない。
「人間の歴史も実は痛みを礎として成立しているのかもしれない。生きていれば必ず痛みを受ける。今はそれを互いに共有することができない。他者とのつながりを拒否して社会との共感性が失われ、孤立化が進行する時代です。ただ小説家としては願ってもない。だからこそ小説を読んでほしい」
これまでの天童荒太の作品世界から新たな境地に踏み込んだ渾身の一作。込められたメッセージを受け止めたい。(ライター・田沢竜次)
※AERA 6月18日号