■なぜ日本兵は餓死したのか
なぜ、当時の日本人にはそれほどの自信があったのか。そんな疑問が、船尾さんを旧満州に引きつけた。
長年、アジアやアフリカで伝統的な暮らしをする人々を民俗学的な視点で写してきた船尾さんは、09年、美しい棚田のある風景を撮影しようと、フィリピン・ルソン島を訪ねた。
「現地の人に田んぼのことを聞いていくうちに、あなたは日本人でしょ、ここで何があったかは知っていますよね、みたいな話になるわけですよ。彼らにしてみれば、日本人と戦争の記憶はすごく結びついている。本人が直接、戦争を知らなくても、家族から聞いているとか。でも、正直なところ、ぼくはあまり知らなかった」
ルソン島北部の山岳地帯は、日本軍が追い詰められ、敗戦にいたった地だった。そこでフィリピン人が目にしたのは、飢えて死んでいく日本兵の無残な姿だった。
「後退に後退を重ねて、補給もなく、最後は食べるものがなくなり、多くの日本兵が餓死していった。ここがそういう場所であることを現地の人にすごく教えてもらったわけです」
その後、船尾さんは、なぜそこまで悲惨な状況になる前に戦いを止められなかったのか、疑問に思うようになった。
「その背景として、日本は絶対に負けないとか、いつかは日本が必ず逆転すると、固く信じていたところがあった。そんな自信というか、感情はどこから生まれたのか。それがフィリピンの取材で非常に引っかかった部分だったんです」
■満州国という成功体験
明治から昭和初期にかけて日本は大陸に勢力を拡大した。1931年に関東軍が満州事変を起こし、翌年、中国東北部に傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国した。
「その成功体験から、日本はすごいんだ、という意識が生まれた。民衆も素朴にそう信じたことがなんとなく見えてきた。その舞台となった満州国のあった場所を見たいと思った」
一方、戦争の痕跡を撮ろうという意識はほとんどなかったという。
「この戦争はあまりにも巨大で、自分がそれを撮って表現しようとか、考えたことは実はなくて。フィリピンの写真集ができたので、自分へのご褒美のつもりで旅行に出かけた、というところですね」
そこで満州時代の建物を目にすると「本当にすげえもんをつくっていたんだな、と感じた。それをフィルムに刻みたいと思った」。
■ワクワク感があった
撮影は、当時の建物がどこに建てられたのか、確認する作業から始まった。国会図書館などに通い、戦前に作られた旧満州の都市の地図をコピーした。それを手がかりに長春(旧新京)、大連、旅順、瀋陽、ハルビンなど、かつて主要都市を訪れた。
「日本で相当、下調べをしてから行くんですけど、建物があると思っていたところが全く残っていなかったこともありました。逆にあまり期待していなかったところにしっかりと建物が残っていたりすると、見つけた! みたいな感じでね、単純にとてもうれしいんですよ」
長春や大連の中心部にはかつて公官庁や銀行だった大きな建物が集中しているが、そこから離れた場所に一般庶民が住んでいた地区があった。
「そこへ行くと、劇場や商店街が残っていることがあった。これを見つけたのはぼくが最初かもしれないと思って、ちょっと優越感に浸ったりして(笑)」