旅行専門学校卒業から違う道を歩みだした2人が結婚したのは、96年のことだ。日高さんはトップ選手としての地位を確立、邦博さんも転職したイベント会社でバリバリ働いていた。仲の良い友人として電話や手紙で連絡を取り合っていたが、お互い何度か恋愛も経験し、そのたびに恋人ができた報告や、別れた愚痴などを言い合うような関係だった。一生独身を通し、選手を続けよう。そう思いかけていた95年のレースの合間、仕事で福岡に来て久しぶりに会った邦博さんがポロッと言った。
「結婚しようか」
「そうね。井上君がマネジャーになってくれたらいいかもね」
選手も辞めない、ファンに親しまれた日高の姓も捨てたくない、本拠地の福岡も離れたくない。邦博さんは全て受け入れ、平成8年8月8日、末広がりの日を選んで婚姻届を提出。二十歳で出会った2人は34歳になっていた。
翌97年3月、日高さんは長女を出産、2カ月半後にレースに復帰した。発車ベルギリギリまで授乳して新幹線に飛び乗った後は、主夫の邦博さんの出番だ。競艇選手はレース開催前日の検査からレース終了までの概ね1週間、食事も含めて施設内に“缶詰め”にされ、携帯電話もパソコンも持ち込めない。この間、留守宅では邦博さんが、冷凍保存してある搾乳した母乳を湯煎で戻して3時間おきに長女に授乳し、オムツを替え、一切の子育てを担当した。離乳食も健診も、公園デビューも邦博さんがこなした。
復帰4戦目で日高さんは優勝、出産翌年の98年の年間獲得賞金は3289万1500円と順調に回復した。99年7月には次女を出産、3カ月後にはレースに復帰し、翌2000年の獲得賞金は2千万円を突破、01年には3700万円を超えた。
グレートマザー逸子は縄跳びや筋力トレーニング、パワーヨガで体重や体調管理を怠らないが、大好きなお酒を飲み過ぎることがあった。グレートファーザー邦博は酒もたばこもギャンブルもやらず、妻のスケジュール管理と賞金や経費の帳簿作成を完璧にこなし、娘たちの弁当を15年作り続け、学校や塾の送り迎えを欠かさなかった。
長女は千葉県内の大学の薬学部で4年生に進級し、次女はこの春、神奈川県内の大学の獣医学部に進んだ。日高さんが憧れながら、学費などを考慮して諦めざるを得なかった進路だった。
「レースから帰れば絶対に娘がいたのに、いまはこの人しかいないと思うと涙が出てきちゃう」
軽口を叩きながら、夫婦で補完し合って乗り越えてきた。
次女は自宅の居間の食卓に、手紙を3通残していた。宛名は「パパ用」「ママ用」そして「パパとママ用」だった。
(編集部・大平誠)
※AERA 2018年5月14日号