80年5月末、1カ月半後に迫ったモスクワ五輪に向け、17歳の高校3年生だった笹田さんは、東京都内で強化合宿中だった。数週間前の代表選考会で優勝していた。人生の全てを体操に捧げ、実力で勝ち取った夢の五輪への初切符は、この強化合宿中、日本政府によって一方的に取り上げられた。
「日本は派遣をしないことになった。合宿は今日で終わり」
それが体操協会幹部からの説明だった。東西冷戦のまっただ中、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議するため、米国政府の呼びかけに応じた日本を含む西側などの各国政府が、モスクワ五輪を集団ボイコットすることになったのが理由だ。
一時期、体操への意欲を失った。それでも4年後のロサンゼルス五輪の団体出場権をかけた83年の世界選手権では、12チームしか出られない五輪への切符を日本に引き寄せた。しかし、団体を構成する7人の代表選手を最終決定するための84年の代表選考会では9位に終わり、代表入りはかなわず。当時は中高生が主力だった女子体操競技で、大学4年生になっていた笹田さんは、すでにピークを過ぎていた。全国高校総体3連覇、全日本学生選手権4連覇、全日本選手権で個人総合優勝3回と、輝かしい成績を残してきた逸材だったが、絶頂期で出場するはずだったモスクワ大会を取り上げられた後、五輪への出場機会は巡ってこなかった。
笹田さんが言う。
「五輪に出るのは本当に大変なことです。そう思えば思うほど、私は代表になったのに、なぜ行かせてもらえなかったのかと納得がいかない。五輪のたびに、その思いが繰り返され、強くなる。この無念を墓場まで持って行くのでしょうね」
ロサンゼルス五輪では、今度はソ連など共産圏の国々が参加をボイコットした。
「何をやっているんだと思った。4年に1度というのは、すごく貴重です。その4年間、五輪を目指して選手は頑張っている。今だから言えるが、モスクワ五輪への派遣とりやめは、完全にオリンピック憲章違反だった。スポーツに政治が介入するのは、絶対にあってはならない」(笹田さん)