

哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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米国で#MeToo運動が始まったのは去年の秋のことである。ハリウッドの映画プロデューサー、ハーベイ・ワインスタインの性的ハラスメント疑惑がきっかけになって、映画界から始まり、ジャーナリスト、政治家たちが毎日のように告発された。アラバマ州上院議員補選では、共和党候補者が約40年前のセクハラ被害者の告発を受けて落選した。
一方で欧州にも広がった#MeToo運動に対して、フランスでは「ルモンド」紙に約100人の女性が批判の公開書簡を発表した。彼女たちは#MeTooがネット上で展開している「公開処刑」的な告発で、名指しされた男性たちはほとんど弁明の機会も与えられず社会的制裁を受けていることを、「新しいピューリタニズム」ではないかという懸念を示したのである。「レイプは犯罪である。けれども誰かを誘惑することは、それが執拗(しつよう)であっても、不器用であっても犯罪ではない」。男たちによる権力の濫用(らんよう)は告発されるべきだけれど、今の流れは制御できないところまで暴走しかけているのではないかと彼女たちは危惧したのである。これに対してただちに運動の意味を矮小(わいしょう)化するものだという厳しい反批判があり、署名者のカトリーヌ・ドヌーヴは連日弁明に追われた。
どちらの言い分にも掬(きく)すべき理があり、一方に与(くみ)することはむずかしい。加害者の側に害意がなくても、傷つく人は傷つく。だから「そんなつもりではなかった」という言い訳は通らない。その通りだろう。ただ、#MeTooへのバックラッシュがフランスで始まったことに私は興味を覚えた。それは、被害者の自己申告だけで加害者を名指しし、処罰を加えた事実をフランス人が今もトラウマ的経験として抱えているからではないかと思ったからである。「解放」後の対独協力者の処刑である。
フランス全土で数千人と言われる対独協力者が裁判抜きで、時には匿名の密告だけで処刑された。そこには事実誤認もあっただろうし、嘘もまじっていたはずである。正義の執行は必要だ。けれど、正義を求める怒りが激しいと、厳密な吟味がもどかしく思われることもある。正義の名において語るときにも節度を忘れてはならない。
※AERA 2018年2月5日号