ただひとつ、忘れてはならないことがある。それは、原発が倫理的に大きな問題を抱えた技術だということだ (※写真はイメージ)
ただひとつ、忘れてはならないことがある。それは、原発が倫理的に大きな問題を抱えた技術だということだ (※写真はイメージ)
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 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

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 関西電力高浜原発3号機が再稼働した。新規制基準下での再稼働はこれで計5基となる。同機については、いちど再稼働を行ったものの、昨年3月に大津地裁により運転差し止めの仮処分が出ていた。大阪高裁がその決定を取り消したため、ふたたび運転が可能となった。再稼働を受けて、関西電力は値下げを実施するという。

 原発の是非の判断はむずかしい。環境、経済、安全保障、大衆心理。さまざまな要素が絡まっている。2011年の原発事故のあと、世論は沸騰し、活発な議論が交わされた。その結果が現状なのであれば、日本は結局のところ脱原発は選べない国なのかもしれない。事故があっても変わらずに原発推進であり続ける、それもまたひとつの選択ではあろう。

 ただひとつ、忘れてはならないことがある。それは、原発が倫理的に大きな問題を抱えた技術だということである。

 人類はいまだ使用済み核燃料を安全化する技術をもっていない。その処理については、長期間どこかに保管し、放射能が自然に減衰するのを待つか、あるいは後世の未知の新技術に期待するしかない。つまりは、現在の原発は、いまここで処理できないものについて、いつかだれかがなんとかしてくれるだろうという「他人任せ」の態度をとってはじめて成立している。これは褒められたことではない。事故がなくても、いくら経済効率がよくても、原発を使い続けるかぎり、使用済み核燃料は蓄積する一方であり、ぼくたちは後世の自然環境と人間社会に負担を押しつけ続けることになる。原発とは本質的にそういう技術なのである。

 原発は倫理に反している。これは必ずしも即時全廃を意味しない。悪いことだとわかっていても、やらなければならないときもある。技術の進歩は予見不能なので、原発もいつかは「他人任せ」を解消できるかもしれない。だから原発がどうしても必要ならば、使い続けてもよいとぼくは思う。しかしそのときも、それが本来存在しないほうがいいものであることを忘れてはならない。立地自治体と経済界が望むので再稼働します、という思考停止の判断ではいけないのだ。

AERA 2017年6月19日号

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東浩紀

東浩紀

東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数

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