体調を崩したのは昨年の秋頃。W杯前だったため、公表を控え闘病生活に入った。病が発覚した際、すでに余命3カ月と言われたという (c)朝日新聞社
体調を崩したのは昨年の秋頃。W杯前だったため、公表を控え闘病生活に入った。病が発覚した際、すでに余命3カ月と言われたという (c)朝日新聞社
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 ラグビー日本代表の司令塔として活躍した平尾誠二さんが20日、京都市内で死去した。53歳。病気療養中だったという。早すぎる死を悼む声が相次いだ。

 ラグビー界のレジェンドが逝ってしまった。

 ラグビー日本代表の司令塔として3度のワールドカップ(W杯)に出場し、代表監督も務めた平尾誠二さんが10月20日に亡くなった。53歳だった。2019年W杯日本大会組織委員会理事で事務総長特別補佐。大会成功の先導役だったが、志半ばにして病に倒れた。京都・伏見工業高校で全国制覇。その快挙がドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルにもなった。同志社大学で史上初の大学選手権3連覇、神戸製鋼で日本選手権7連覇。常に偉業という光の中にいた。

●湧き立つようなオーラ

「ミスターラグビー」と呼ばれた。英国で磨きをかけた華麗なプレー、端正なマスク。女性がラグビー場に通う入り口になった。現役を退く前に長野・菅平高原で取材したときのこと。100メートル以上離れたラグビー場の外を歩いていても「あれ、平尾じゃないか」と記者たちにすぐ見つかった。颯爽とした身のこなし。8頭身のスタイル。湧き立つようなオーラがあった。

 雑誌「ラグビーサミット」の編集者である滝川昂さんは学生だった02年ごろ、神戸製鋼ゼネラルマネジャーだった平尾さんを2度インタビューした。

「口ひげを生やしていて何となく怖そうなイメージだったが、実際に会うと上から目線みたいなところが皆無ですごく気さくな方だった」

 自身と直接関係のない早明戦がテーマだったにもかかわらず、丁寧に答えてくれたという。

「世界の視点でラグビーを考えられる人がいなくなったのは痛い。W杯に向けて日本の顔というべき存在だった」(滝川さん)

 W杯成功へ、大きな求心力を失ったことを悼む声は多い。

●ハンサムで頭もいい

「華のある人だった。誰もまねできない唯一無二の存在」

 そう話すのは、今季大学選手権8連覇に挑む帝京大学監督の岩出雅之さんだ。代表デビューも果たしたスタンドオフの松田力也(4年)ら、伏見工業出身者を数多く入部させてきた。

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