「球場に行かない日は、ウチに近所の人が10人ぐらい集まって試合前から酒盛りしつつ大音量でテレビ観戦するんです。だから3年に1回ぐらいテレビが故障するんですが、電器屋のおじさんもメンバーの中に入っていたので、毎回直してくれました。昨年の正月に一時帰国したとき、広島のお洒落なカフェに入ったら、周りの若い女の子たちが全員、大リーグから復帰した黒田投手のことを話していて、地元ファン層の厚さを感じました。母には還暦祝いに赤松真人選手のユニホームをねだられています。優勝目前の今、祖父が生きていたら、心の底から喜んだと思います」

●広島弁のヤジで愛覚醒

 朝日新聞デジタルに「カープ女子観戦記」を不定期連載しているタレントで作家のうえむらちかさんの祖母、草田カズヱさん(86)は、広島市内の女学校に登校中に被爆、両足には今もケロイドの痕が残る。しかし、終戦1年後に創設されたソフトボール部で初代主将を務め、カープ誕生時から熱心に応援を続けてきた“元祖カープ女子”。昨年9月には草田さんがマツダスタジアムでホームランガールを務め、うえむらさんの観戦記でも3回にわたって伝えた。

 うえむらさんのカープ愛が覚醒したのは9年前、上京してホームシックになりかけたころだ。知人に勧められて出かけた神宮球場のスタンドで広島弁のヤジを聞いた瞬間だった。以来、関東での試合を中心に、年間約40試合も観戦、球場で友人の輪を広げ、『カープ女子 うえむらちか&広島東洋カープ 2014年の軌跡』を出版するなどカープ漬けの日々を送っている。

 8月24日の巨人戦に勝ち、マジック20が点灯、カウントダウンが始まった。

「優勝を毎年の目標に設定していたので、本当に優勝したら抜け殻になっちゃうかも。でも日本一になって選手やスタッフがパレードする姿を、おばあちゃんと一緒に見たいです」

 25年ぶりの歓喜の瞬間は、もうすぐだ。(編集部・大平誠)

【広島カープ年表】
1949年:原爆で焼け落ちた広島城の愛称が「鯉城」であったことなどから「広島カープ」の球団名で加盟申請

1950年:同年発足したセントラル・リーグで勝率は3割に満たず最下位。入場料収入不足などから資金難に陥り、選手への給料遅配も発生

1951年:一時は大洋への吸収合併が決まるが、発足した後援会が資金調達に樽募金を始めたことで立ち直り、市民球団としての礎を築く

1957年:広島市中央公園内にナイター設備のある広島市民球場が完成、本拠地に。観客動員も飛躍的に伸びる

1968年:東洋工業(現マツダ)社長が筆頭株主になり、チーム名を広島東洋カープに変更。リーグ3位となり創設以来初のAクラス

1975年:帽子とヘルメットを赤に刷新。古葉竹識監督のもと、山本浩二や衣笠祥雄らの主砲、外木場義郎らの投手陣が大活躍。赤ヘル旋風を巻き起こし、リーグ初優勝。日本シリーズは阪急に敗れる

1979年:2度目のリーグ制覇、日本シリーズも制し、赤ヘル黄金期に突入。翌80年と84年にも日本一、86年もリーグ優勝を飾る

1991年:大野豊らの投手力を武器に最後のリーグ優勝。監督は就任3年目の山本浩二だった

1996年:最大11.5ゲーム差を逆転され巨人の長嶋茂雄監督に「メークドラマ」と称された屈辱のシーズン。最終的にリーグ3位

2009年:本拠地を新球場のマツダスタジアムに変更

2013年:16年ぶりのAクラスでクライマックスシリーズ(CS)進出。翌年もCS進出

2015年:阪神から新井貴浩、米ヤンキースから黒田博樹が復帰

2016年:交流戦で首位争いをして勢いを加速、25年ぶりのリーグ制覇に向けて独走中

AERA 2016年9月12日号

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