そのさなか、京都大学文学部1年の山崎博昭さんが亡くなった。これが、10・8羽田(ジュッパチ・ハネダ)として、学生に大きな影響を与えた。

「人生の大きな転機となった。時代を自分の手で変えることができると思い、革命運動に人生を投げ出すことを決意しました」

 2015年、現在サラリーマンの岸さんは48年ぶりに弁天橋を訪れ、こんな感想を漏らした。

「まわりは木造の民家ばかりだったのが、マンションが立ち並んでおり、風景はずいぶん変わりました。橋に歩道ができ、川の水がえらくきれいになっていることに驚きました」

 17年、「10・8羽田」から50年を迎える。山崎さんに縁のある人たちが、「10・8山崎博昭プロジェクト」を立ち上げ、弁天橋付近にモニュメントを造る計画を立てている。

●高校生が野戦病院反対

 68年3月。都立北園高校から同校生徒ら約100人のデモ隊が北区の米陸軍王子病院に向かった。ここはベトナム戦争の負傷兵が運ばれており、王子野戦病院と呼ばれていた。

 北園高校は病院から歩いて15分程度。同校では生徒委員会を中心に野戦病院反対運動に取り組んでいた。

 この日、デモ隊が野戦病院のゲートに到着してまもなく、先頭にいた生徒委員会委員長ら2人が野戦病院に引きずり込まれ捕まった。一緒にいた生徒の多くは動揺し、その場から退散する。だが何人かは戻って抗議を続けた。そのなかに、高校1年生だった金廣志さん(64)がいた。

「僕は当初、学生が角材を振り回して暴れることに反発を覚えていた。警察は正義だと思いこんでいたからです。だが、目の前で機動隊が学生を警棒で殴りつけている。それを止めようとした住民にも襲いかかって、顔面、血だらけにされている。大きなショックを受け、闘争に参加するようになりました」

 王子闘争の集会は王子駅近くの柳田公園で行われ、ここからデモ隊が出発して野戦病院へと進む。病院のゲート前には機動隊が待機しており、必ず学生と衝突した。金さんはこのような場面に何度も遭遇している。

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