1960年代後半の学生運動が盛んだったころ、都心は騒然とした空気に包まれていた。
あれからほぼ半世紀。「市街戦」を見守っていた街と人は大きく変わった。
激戦地をめぐり、日本社会の変化をたどった。
1960年代後半。都心は騒然とした空気に包まれていた。学生は石や火炎ビンを投げつけ、機動隊は催涙ガスやジュラルミンの盾で応戦する。そんな「市街戦」が繰り広げられていた。
67年10月8日。慶應義塾大学経済学部2年の岸宏一さん(69)は、機動隊から浴びせられていた放水が急に強まり、飛ばされてしまう。足場が悪すぎた。カマボコと呼ばれる機動隊の装甲車の上にへばりついていたからだ。カマボコは橋の上に止まっていた。岸さんは放水によって飛ばされ川に転落する。こうふり返る。
「川に落ちたときそれほど衝撃を受けませんでした。水は冷たくなかったが、黒く濁っていた。橋の周辺には多くの住民が集まってきて、浮かび上がらなかったわたしを心配していたようです。川から顔を出したら、いっせいに拍手が起こりました」
●橋から落ちて革命家に
この日、佐藤栄作首相が羽田空港から南ベトナム(ベトナム共和国=当時)を訪問するのを阻止するため、新左翼の各党派は空港近くで激しいデモを行っていた。佐藤首相は午前中に羽田を発つ予定だった。そこで、岸さんが所属していた党派の学生は、午前8時半すぎ、羽田空港近くの大鳥居駅に集まった。
学生たちが空港めがけてデモを始める。空港に近づくと海老取川にかかる弁天橋の上でカマボコが待機しているのが見えた。
「1人でも羽田空港のなかに入れば飛行機は飛び立てない。佐藤訪ベトを阻止して、われわれは勝利できると思っていた。だから、カマボコを乗り越えて空港に突入しようとしたのです。前もって角材を弁天橋近くの民家の軒下などに隠しておいた。当日、角材を取り出して機動隊とぶつかりました」
岸さんはいちばん最初に弁天橋から落ちた。すぐに全身ずぶ濡れの状態でデモ隊の最後尾につく。この間、弁天橋の上では学生と機動隊の衝突に激しさが増した。