「ひっそり暮らしたいが、収容所をなくすため、つらい思いに耐えて経験を話し続けている」。申氏は現在、ソウルで一人暮らし。創設したNGO「InsideNK」の活動などで、1年の半分ほどは欧米に滞在しているという(撮影/編集部・田村栄治)
「ひっそり暮らしたいが、収容所をなくすため、つらい思いに耐えて経験を話し続けている」。申氏は現在、ソウルで一人暮らし。創設したNGO「InsideNK」の活動などで、1年の半分ほどは欧米に滞在しているという(撮影/編集部・田村栄治)

 目の前で母が絞首刑に、続けて兄が銃殺刑に処された。そのとき申東赫(シンドンヒョク)氏(31)を襲ったのは、悲しみでも絶望でもなく、2人に対する「怒り」だったという。14歳になって10日後のことだ。

「母と兄が脱走を企てたことで(拷問など)ひどい目にあった。2人をとても恨んでいた」
「罪を犯したのだから、死ぬのは当然だと思っていた」

 彼の半生を振り返ったドキュメンタリー映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」で、申氏はとつとつと語る。その言葉は、肉親に対する愛情の獲得すら許されない閉鎖空間の凄まじさを知らしめる。

 この映画や彼の著書などによると、申氏は1982年、北朝鮮中部の价川(ケチョン)市にある政治犯の強制収容所「14号管理所」で生まれた。両親は模範的な収容者同士として「表彰結婚」をした。

 物心ついたとき、申氏にとって母は「生存競争の相手」だった。食事はわずかな配給だけで、申氏はいつも空腹だった。ある朝、母が働きに出た後、昼食にと作ってあったトウモロコシの粥を母の分まで平らげた。母は激怒し、申氏を激しく殴打した。しかし彼はその後も、機会を狙っては母の食べ物を奪い、せっかんに耐え続けたという。

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