原発事故の賠償でいまだ揺れている福島県。仮設住宅で暮らす人びとは、じっと耐えて次の一歩を考える。
津島出身の60代の女性は福島市佐原の仮設住宅で30代の長男と、小学5年を頭に幼稚園までの4人の孫と暮らしている。震災後、双葉病院に入院していた夫は搬送された栃木・那須の病院で亡くなった。看取りたかったが、長男の嫁が仮設を去り、母親代わりに孫を育てねばならず、間に合わなかった。無理がたたって坐骨神経痛で足腰が立たなくなったときは、「なぜこんな目にって、一回だけ恨んだな。ははは」と笑い飛ばす。快活で面倒見のいい「肝っ玉かあさん」の周りには人が集まる。
「浪江の復興住宅はいわき、二本松、南相馬に建つって言ってっけど、やっと孫たち、こっちの学校さ慣れてね、もう保健室に行ってお腹痛い、父ちゃん来てって言わなくなったのに、転校したら、心配だね。4人とも剣道やって、元気になれたんだ」
愚問だと思いつつ「仮設生活で何が一番つらいですか」と尋ねた。隣戸の冷蔵庫の開け閉めまで聞こえるプライバシーのなさや、狭さや寒さといった環境の悪さには触れず、女性は「自由にほじゃくれる(耕せる)小さな庭がほしい」と言った。津島の公営住宅の庭で、彼女は露地物の野菜や花をこしらえては近所の人に配っていた。いまでも津島の穏やかな暮らしや美しい山なみの夢をみる。朝、目が覚めて夢だと知り、涙が流れる。
※AERA 2014年3月17日号より抜粋