後藤雅洋さんの『ジャズ耳の鍛え方』を読んだ。なかで、大学づとめの研究者が気軽にジャズへ言及することを、批判しておられる。ろくに分かりもしないくせにえらそうなことを書くな、と。
耳のいたい話である。まあ私が名ざしで糾弾されているわけではない。しかし、私なんかもにがにがしく思われているひとりではあろうなど、そう思う。
もう、こういう書きつらねることは、ひかえたほうがいいのかもしれない。そろそろ、潮時かなとも思う。ここへの執筆はこれでおしまいということにしよう。
『ジャズ耳…』で、後藤さんは、同じ区CD、レコード何度もくりかえし聴けという。最初はわからなくても反復してあじわううちに、わかる時がくる。名盤と言われているCD、レコードならば、かならずのみこめるはずである。そう読者を、うながしている。
たしかに、そういうところはある。私にも、同じような体験はある。最近ではサイモン・ナバトフのCDを、それでのりきった。はじめは、とっつきも悪かったが、しばらく聴きつづけ今は夢中になっている<『ソロ.ピアノ.ライブ』(2002年)、『アラウンド.ブラジル』(2006年)>。
しかし、これを聴きつづける気になったのは、最初の一聴きで予感があったせいであろう。これは、耳ざわりがよくない。だが、たぶん、こいつなら好きになる。そうあらかじめ思えたからこそ、しばらくつきあう気にもなったのだろう。せんじつめれば一目ぼれであったということか。
そして、ジャズの魅力はそこにあると私は考える。そもそも、その場かぎりの一期一会の音楽なのだ。もともとは、それを何度もくりかえし聴いてようやくわかるというのは、なんだか変な感じがする。はじめて耳にした時、あっこれだ、オレのもとめていたのはこの音だと、うれしくなる。そこが欠落したジャズ鑑賞はちょっとおかしいじゃないだろうか。
くりかえしくりかえし聴きつづけて、ようやく名盤になじむ。それは音楽のたのしみかたじゃあない。自分に暗示をかけ、洗脳させてしまう。一種の自分にたいするすりこみじゃあないかと、思ってしまう。
ブラインド.チェックができなければ一人前じゃあないとも、私は思わない。こいつは、誰それの音だ。こちらは、あいつにちがいない。そう聴きわけることに、なにほどの意味があるのだろう。まあ、ジャズのきき味をきわめ、ソムリエにでもなるつもりならば、わからなくもないが。
私にも音の好ききらいはある。こいつは好きだが、こちらはもうひとつだと、よく思う。だが、その名前を記憶にとどめようとは、あまり考えない。自分の好きな音が見いだせればそれでじゅうぶんだと思っている。まあ、結果的に好きなミュージシャンの名は、覚えてしまうのだが。
後藤さんは、こうもいう。クラシックは、作曲家の魅力を楽しむジャンルだが、ジャズはそうじゃあない。演奏家の魅力をあじわうのが、ジャズである、と。
おっしゃることは、わかる。くらべれば、そういうところはあろう。しかし、クラシックだって、演奏家のちがいを、ファンはたのしんでいる。
たとえば、ブラームスのバラード。
エミール・ギレリスは、おりめ正しく、しかも表情ゆたかに音をひびかせる。だが、少し重々しすぎるんじゃあないという気も、しなくはない。
同じバラードが、ベネディット・ミケランジェリでは、艶っぽく聴こえる。へえー、ブラームスにこんな色気があったのかと、教えてくれる演奏である。
パスカル・ロジェは、彼がフランス物をひく場合以上に、メリハリをきかせている。ブラームスのバラードが、たいそうグラマーに印象づけられる。ヴァレリー・アファナシェフも、いろいろ工夫があっておもしろい。しかし、ここまでやられると、細工をうるさく感じるむきもいるんじゃあないか。
とまあ、以上のように聴きわける。ミュージシャンの個性を、ないがしろにしているわけでは、けしてない。
ジャズこそが、演奏家を聴きわけるジャンルだとは、とうていいえないだろう。クラシックだって、そこは鑑賞かんどころになっている。いや、、聴きわけのデリケートさでは、ジャズをはるかにうわまわるんじゃないか。
もちろん、タンゴにも、聴きわけのおもしろさはある。私はジャズのビギナーだが、後藤さんの本を読み、その点で違和感をもった。
まあ、そこは、しかし、後藤さんもおりこみずみなのだろう。ジャズの魅力を語りたい。その一新で、すこしフライング気味にまとめられたのだと考える。