西武ライオンズの元エースで監督経験もある東尾修氏は、亡くなった野村克也さんとの現役時代や引退後の交流を振り返る。
【写真】1997年の日本シリーズで西武を破り、胴上げされるヤクルトの野村克也監督
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キャンプ真っ盛りの2月11日、野球界が悲しみに包まれた。野村克也さんが亡くなった。現役時代の輝かしい実績だけではない。監督として、評論家として、野球界に大きすぎる貢献をされた大先輩の訃報(ふほう)に私も言葉を失った。
西武ライオンズとなった1979年。野村さんがロッテから移籍してきた。キャンプは1次が伊豆の下田、2次は米フロリダ州ブラデントンで行われた。パイレーツのキャンプ地、ブラデントンは最初のうちはよかったが、大リーガーが集まってくるに連れて練習場がどんどんひどくなっていった。周囲にはもちろん出歩くところはない。当然、夜は宿舎で野村さんと話をする機会が何度もあった。
野球以外の話もたくさんしたけど、言われたのが「お前みたいな投手は直球をどこで要求するかが難しい」ということだった。緩急を駆使するスタイル。直球をいかに速く見せるかということを常に考えてくれたのだと思う。
ただ、開幕戦から2試合バッテリーを組んだが、野村さんは当時43歳だった。肩が衰えているから足の速い走者が一塁に出ると中腰。私は低めへの制球を身上としているだけに、投げにくかったことを覚えている。若くて球に勢いのある松沼の兄やん(博久)はカウント3‐2から高めのボール球を要求して空振りを誘うなど持ち味を引き出したが、私のリードに関しては苦労されたと思う。私の調子も良くなかったが、野村さんと先発バッテリーを組んだ6試合は1勝4敗。翌80年は先発で1試合も組むことがなかった。
引退後もテレビの評論などで野村さんと2人でダブル解説をする機会もあったが、配球面などは、野村さんに話を譲ることが多かった。ストライクゾーンに1球ごとの配球を記した「野村スコープ」は野球の深い部分を知る上で、今の野球中継では定着しているものだ。当時は、映像にそういったものを載せることは、逆にゴチャゴチャして見にくいとの意見もあったと聞くが、新たな野球の見方を提示したのは、野村さんである。