落語家・春風亭一之輔氏が週刊朝日で連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今週のお題は「ピンチ」。
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1月5日。午後0時20分。某寄席の楽屋入り。私は楽屋に入ると、まず上は素肌に木綿の真っ白な肌襦袢、下はトランクスのうえに白いステテコ姿になる。出来れば楽な格好で楽屋に居たいのだ。次に髭を剃り、歯磨きだ。はしたないが、その日は楽屋のトイレで小用を足しながら歯ブラシを咥えた。その楽屋のトイレは扉を開けるとすぐ左に手洗い場、その脇に小便器、突き当たりに個室がある。3畳くらいのスペースで使用できるのは一人だけ。
10畳と6畳の二間きりの楽屋は、みんなの共用で前座さんが忙しく働いている。独りになれるのはトイレだけである。我々はトイレを「はばかり」と言う。どんなに若い前座も「はばかり」。まさに私は「世をはばかって」歯を磨き、出番に備えていた。
歯ブラシの振動のせいか、下腹部がむずむずし始めた。便意・尿意という言葉があるなら「屁意」があってもいい。派手な音はしなさそうだ。勘でわかる。歯を磨きながら、私は何の気無しに括約筋を緩めてみた。
「……あっっっ! あれ? あ! おいっ!? まさかっ!? マジかっ!?……あちゃーーーーーっ!!」。状況はおわかり頂けるだろうか? そう。屁は別の仲間も連れて娑婆へやってきた。モノ凄くタチの悪い仲間だ。「35を過ぎると年2回のペースでそういう『ピンチ』がやってくる」とある先輩が言っていたが、やはり昨日の深酒が祟ったか……。
とにかく個室へ入りパンツとステテコをチェックする。「駄目だこりゃ……」。衝撃のあまり、思わず口からも心の叫びが洩れてしまった。パンツは紺色。◯ニクロのエア◯ズムだ。とにかく洗おう。洗えばなんとかなる。洗い場で液体石鹸をガンガン付けて洗う。絞る。洗う。絞る。たまに嗅ぐ……を繰り返す。「体温で乾くだろう」とはいてみる。当たり前だが冷たい、が替わりのパンツなど持ち合わせてないから仕方ない。「問題はコイツだ……」。純白だったステテコは、中央部にウコン色のチリ共和国。周りに佐渡島、淡路島、対馬、島島島……。肌襦袢は無事だった。とりあえずステテコを丸めて、トイレからパンイチで脱出。